アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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日本と欧米の自然観の違い(2011年7月・再録) アリアドネ・アーカイブスより

日本と欧米の自然観の違い(2011年7月・再録)
2018-07-05 12:28:12
テーマ:宗教と哲学

 

 2011年7月の標記の記事を再録いたします。日々の徒然に読んでいただいた私の記事の、昨日分では初めてトップになりました。幾度かベストテン内に姿を見せているのは、知っていましたが、ここにきて少数であるにせよ、辛抱強く読んでいただいていることを感謝いたします。
 もはや七年も昔のことで、この文章を書いたときにどんな気持であったのか思い出せませんが、その年の三月には人類史の世界観を一変するほどの、過酷で悲惨な経験を我が国の国民はフクシマで経験しました。そんな危機意識が、強く、この文章には反映しているのだと思います。
 フクシマの出来事が、畢竟、欧米流の自然観が齎した惨禍のひとつであったとするならば、その背後にある、自明視された自然科学や文明観の特徴を、根本的に洗い出さなければならないと、その当時の私は考えていました。その当時私は四十年近く続いた社会人生活を卒業し、自らも院生として教育を受ける立場にありながら、他方では教育界の末端に位置し、年甲斐もなく主体的個人の果たすべき役割を純粋に考えていた私は未だ若かったと云うべきでしょうか。社会人の最終幕の寸劇擬きとして、定年前後を含む最後の十年間は、それまでの人生経験からすれば夢のような第二の人生と言えるほどのものでしたが、結果は能力不足でほろ苦い結果に終わりました。ただ夢として済ませるには内包されたものは余りにも滋味豊かで、私以外の適任者であったならば、もっともっと上手くいったに違いありません。そんな風に感じました。そう云いう意味では個人的な挫折ではあっても、理念が挫折したわけではなかったのです。
 その後私の夢はもう一度2015年9月の安保関係諸法案の可否をめぐる事件のなかで再燃します。この場合は、ほぼ大勢が決した後の時季外れの参戦と云うことで、敗北の意味を噛みしめるために国会に行きました。負の連帯、敗者への連帯と云うのでしょうか。政治活動や意思表示のための行動は、勝つにせよ負けるにせよ、言葉を持ったものの参戦が不可欠なのです。負けるとわかった闘いに一兵卒として参画するとは、そういう意味なのだと、当時は理解しておりました。これは敗北主義とは似て非なるものなのです。

 2011年7月の原文は以下の通りです。
 とある教育機関で書いたパンフレットか落書きのようなものではなかったかと思います。まあ、活動の残骸というところでしょうか。
 第一次産業社会を礼賛しているのではなく、それらによって意味されていいたものを学ぶべき!と、紹介する書物を通して書いているにすぎないのです。
 
https://blogs.yahoo.co.jp/takata_hiroshi_320/20546618.html#28631225


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日本と欧米の自然観の違い――富山和子「日本の米」を読んで


1. 日本地図を見てわたしたちは、文明は海岸に面した大河の河口に発達したと思えてしまう。また世界地理の教科書においても、古代の四大文明が大河との密接な関係性を教えられてきた。
2. しかし、果たしてそうか。四大文明の三つまでが砂漠であることを中高生の頃不思議に思わなかっただろうか?ナイル?チグリス・ユーフラテス?黄河?著者によれば、都市の文明化の結果、砂漠化したためであるという。
3. 文明の多くはは森の保全と人口の過密化との間の調整に失敗し、砂漠化の果てに文明の消長を繰り返すという。
4. 例外的にエジプトが6000年に渡って文明を維持できたのはナイル川と云う極端に大きな大河の存在と定期的な洪水が沃土を運んだためと云う。しかしそのエジプトもアスワンダムによって様相もしない形での穀倉地帯の砂漠化と云う現象に直面していると云う。
5. もう一つの例外が日本であると、と富山和子は云う。
6. 日本においては自然との付き合い方が余程違っている。水の思想があり、根源を辿れば山の思想に行きつく。水は山で生まれ、その水を生かしたのは稲作に媒介された土の思想であった。土もまた天然のものではない自然と人間の合作であった。
7. 縄文期から律令期の日本においては、大河川流域の平地は一面がアシやヨシが繁る湿原であり人が住には適しなかった。しかも縄文期の離散的に住む村社会のあり方の中では定期的に起こる疫病や洪水に抗すべく術もなかった。
8. 古代日本人が低地の平野部に出てくるのは古代王権が確立する律令制の頃と云われている。
9. この時代、現在の平野部分の多くは形状的に現在のようではなく、葦生える湿原か入江であったという。つまり長い年月によって上流より運び込まれた土砂がこのころ、丁度良いことに堆積しはじめたと云うのである。
10. 古代王権の成立は大量の人員を動員する態勢を律令制下に整えつつあり、この自然環境と社会的歴史的環境の偶然的な一致の上に、通常我々場無意識のように前提する“文化の中心地は、大昔から大河川の下流平野にあった”(P85 )という先入観が形成されていたのである。
11. 欧米の自然観においては、人の手が加えられていないwildの自然観を前提し、このことを疑問に思う事もない。
12. しかし我が国においてはwildの自然観のほかに、幾段階かのphaseを経て、人と人間が共同で造って来た歴史的構築物としての自然観が明らかに存在する。
13. 早い話が嵐山や吉野の桜は自生のものでありえたか。古の王朝人が花の記憶を頼りに古を偲んで手植えしたものが時代を経て“みまごうばかりの”自然へと、つまり“第二の自然)へと回帰した姿にほかならない。
14. また例えば唐津の虹の松原に見るような日本人には名所旧跡として馴染みの白砂青松の風景が自生のものでありえたか。その多くもまた一本一本古の日本人が手植えした防砂・暴風・塩害から作物を守るための歴史的構築物にほかならなかった。
15. 棚田や条里制の名残をとどめる水田にしてもそうである。水田とは単なる耕作地や畑ではなく田植えのために水を水平の張る必要がある。そこには多くの人員と歳月をかけて大地をならした農民たちの歴史的営為の賜物なのである。
16. こうした国土に遍在するいわゆる”日本の風景“が単なる自然で有る筈がない。ましてやwildとしての自然である筈がない。
17. 台地を潤す水田の風景もまたそうである。水は低きに流れる、高きに水を張るためには大規模な灌漑の施設を必要とする。そこには半端でない近世の集団労働の営為があったはずなのである。
18. 日本人にとって自然とは、Discover japanなどというキャッチフレーズで気楽に発見されるべきものではなく、長年月のおける人間的営為、歴史的成果なのである。
19. 欧米の自然観に対するかかる日本人の自然観が特殊なのだろうか。
20. むしろ欧米流の偏った自然観とは、自然環境を破壊した産業革命後のイギリスなどにおいて生じた無意識の悔悟と反省、せめて炭坑や廃山あとの牧草地を“自然に帰れ”とばかり復古的に想像した、理念化された自然観ではなかったのか。
21. 穏やかに波を打つイングランドの丘と畝が、まるで緑の絨毯のように展開する絵のようなイギリスの田園風景に誰しもが自然の安らぎを感じる、しかしそれが美しいのはそれが一旦は失われたものであり、イギリス人の自然への郷愁ゆえに美しいと感じているのではあるまいか。
22. Wildな自然とは近現代人の病的なノスタルジアにすぎなかいのではあるまいか。
23. 今日の環境破壊をもたらした欧米流の偏った自然観が何時頃成立したかを特定するのは困難である。肉体と魂を分離したキリスト教の考え方が無関係であったとは思えない。
24. 対象化されたものとしての自然、搾取の対象としての自然はベーコンの経験論や実験的実証主義の中で顕在化し、デカルト物心二元論の中で最適の表現を見る。
25. カントは、これまでの学問は対象を中心に考えてきた、森羅万象に意味を与えるのは人間あるからこれからは価値形成体としての人間を中心にものごとを考えることにしようと云う提案をし、それを哲学におけるコペルニクス的転換と自画自賛した。
26. 今日の歪な欧米流の自然観は、カント哲学において完成したと見るべきだろう。ここからもっぱら生産と消費としての自然観が成立したのである。
27. この自然を、機能として分解する自然観が、大量生産と大量消費の技術を可能にした。
28. 明治初期までの日本人にとっての自然観とはこのようなものではありえなかった。
29. 最初に山の思想があり、人間は柳田国男の“遠野物語”や“山の人生”にあるように縄文期の日本人は山から出てきた。
30. 狩猟生活のほかに水を使って耕作し、やがて人口の衆密度が高まると水を伝って平地に下りてきた。上流から下る水の文化史が偶然稲作の伝来と云う歴史的事象と重なる。
31. 農業の集団化は大規模な灌漑事業を成立させ古代条里制に見るような広大な水田を、さらには入り江や沼を埋める干拓事業を、さらには洪水のリスクの少ない台地に上がって乾田と大規模な棚田を完成させ、かくて日本の津々浦々が隈なく米作りのための水田として開発され尽くしたのである。
32. これがわれわれ日本人が普通に考える日本の原風景、柳田国男ふうに言えば常民の在り方であった。
33. 水の文化は山の思想を平野に展開し、米の思想は水の文化を歴史的に媒介し、国土と国民を育てたのである。米ゆえにこそ土壌は育ち、山と川と海は自然の天然の循環過程の中で汚染されることなく保全されたのである。
34. 水と米は幾重にも日本人を支えた。
35. 水は岩石を砕き幾多の微生物を保全することで山と森を守った。
36. 棚田と水田は地下水となり都市の住民の衣食住を支えた。
37. 河川が運ぶミネラルを含んだ汚泥は稲作を繰り返し作業させる恒常性を可能にし、河口においては生物多様性の見本のように多様な魚介類を生育させた。
38. 水による山の保全は土砂崩れや自然災害を防いだ。
39. 山の自然を保全した水は幾重にも張り巡らせた棚田をめぐり捨てられることなく幾度もの農作業の使用に耐え、上流の川に戻され、今度は扇状地の地下を潜ることで濾過され平地の水田を潤した。
40. 河川を洪水の元凶としていかに早く海まで排水出来るかといったコンクリート護岸技術とは別の発想がある。水は蛇行し折れ曲がりながら幾度も生活水として再利用された。
41. 高山の深山幽谷に源を発し下流の都市住民の生活水として川に放流された水もまだ水の文化史としての長大な履歴を終えたとは言えず、河口から海に押し出し、押し出された土石流は海の干満差と高潮によって押し戻され、“あお”となって佐賀平野のクリーク地帯を潤した。
42. さらに押し戻された土石流は細かく砕かれたて、ある所では白砂青松の景観を生み、より細かく砕かれたところでは泥の海となり、多様な魚介類の宝庫となり、真珠や海苔、牡蠣類の養殖場となる。
43. 米を媒介とした水の文化史は、農業林業漁業というあらゆる第一次産業を支える基であったのである。