アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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マルセル・プルーストの眼 アリアドネ・アーカイブスより

マルセル・プルーストの眼
2018-07-06 13:57:57
テーマ:文学と思想


 自らも言うごとく、マルセル・プルーストの人間観察の冷徹さ、辛辣さは、シニスムを超えて光学顕微鏡とレントゲン撮影を合わせもつほどのリアリズムを実現させていますが、その特徴と云えば、そのレアリズムの線上に幾重もの幻想が音符のように重畳として重なって表現されることです。表立った名付け方はされていませんが、幻想的リアリズムと名付けて見たらよいとさへ私は思います。

 同じく幻想的リアリズムの名前を冠したい20世紀の小説家にジェイムズ・ジョイスヘンリー・ジェイムズがありますが、ジョイスの場合は多面的で多方向的で深神話的歴史・文化史的ではありますが、プルーストのような薄気味悪さや非情さはありません。ヘンリー・ジェイムズの場合は、フランツ・カフカに通じるような人類の悪意とも云うべき魔の祭壇の所在を捉えて大変に身の毛もよだつほど不気味ですが、プルーストの異界への関心は彼の小説の場合それほど表立って本質的ではありません。市井に生きる人間としての人間観察力に於いて、三者それぞれにそれなりの優しさを湛えていますが、プルーストの場合はとりわけそれに秀でていて、――考えようによっては、少女小説擬きのデコレーションケーキのような甘さと不思議に共存する在り方を示しているのです。同じ少女趣味を捉えるにしても、ジョイスの場合なら決まって嘲笑の対象でしか扱わなかったでしょうし、ジェイムズの場合は作者自身もまた登場人物と同等の資格を持った存在者でしかないので、無防備な素手のままで彼の小説の世界を信用してかかると云うには、若干の躊躇が伴うのです。ジェイムズもまた19世紀世紀末風の少女趣味をロマネスクの手段として百パーセント活用させることの名人でありますが、プルーストのように本音や琴線に触れるというような扱い方ではないのですね。

 話しを第一巻の『スワンの家の方へ』に限っても、ママンにお休みのキスをねだるマルセルの発達障碍児じみたシーンの延々と続く心の逡巡をめぐる記述や、春休みの終わりを告知する散歩道”スワンの家の方”での山査子とのお別れの記述などは涙なしには読むことはできず、誰が何と云おうと文学として素晴らしいものがあります。一人の子供にとって、たかが山査子との別れが意味するものが、ボッティチェリの春の戴冠をも思わせる生命の祭壇に手向けられた頌歌であったことなど、分かり様のないひとには分からなくても良いことなのです。実際に、マルセルの家人たちにおいても、その他のコンブレーにおける知人たちに於いても、このことを理解した人はないのです。そうした、誰にも知られることのない子供の時間の固有さと云うものを描き出す技術においてこそ、プルーストの文学の固有さと云うものがあるのです。
 私自身は性格的に少しもプルーストには似ていませんが、もしこのような子供を子としてもったら親としてどう扱えばよいのだろうと考えて、感慨深い思いが去来します。社会に有用な人材たれとか、鉄は柔らかいうちに鍛えなければならないなどと云う世間並みの思いは度外視して、子供に備わった自然性を聖性として尊重し見守ると云う立場が取れたらと、できればそのように希望いたします。

 プルーストのような多感な子供がやがて大人になって恋をします。それが第二部に描かれた『スワンの恋』です。恋が不在なるものへの憧憬として形づくられていた人間の場合は、常に恋は悲恋、失恋と云う形を取ります。求めるものは得られないことによって、阻まれる限りに於いての恋であるわけですから、ここから疑念とか疑惑、そして嫉妬と云う感情が蠢く世界から逃れることができなくなります。
 プルーストに関心があるのは、かかる蟻地獄から如何にして脱出するかと云う処方箋の如きものを提案することではありません。むしろ苦悩の中においてこそ見えてくる世界があると云うのです。しかもそれをひとは体現するだけで進行形の自意識として意識することは出来ず、こと終わりて後は概念知が残るだけで生の経験が本来もっていた実質は飛び去って抜け殻だけが残されるのです。その抜け殻を博物館のように硝子棚のなかに連ねて解説付きで陳列されたものたちが、例えば伝記であり、自伝史である、あるいは客観主義的と称する書き物の類である、とプルーストなら言いたいのでしょうけれども。それらは決して文学ではないとも。
 『スワンの恋』の本質は、恋の手練手管や客観知などが問題なのではなく、幻想や幻覚を持つことの意義なのです。ひとは夢を見る限りに於いて人間であることができる、そう言いたいのだと思います。たとえ性悪女の餌食にされて良いように扱われても、その騙され方のなかに生の豊かさや人生の真実はあるものだし、利口な人間には終に人生の詩と真実には触れもせで生涯を終わることになるのかもしれない、そう、プルーストは言っているのです。『スワンの恋』が描いているのは、つまらない女に何故何年間も情熱を奉げたという一人の男の不幸を描いた物語ではなく、平凡な人生の叙事詩の一齣に煌めく、知られることのない、偉大さ、生命の豊穣なる詩と真実なのです。
 そうしてなお一層怖ろしいことには、自分が偉大なる時間を生きたという感慨を、当のシャルル・スワン氏が忘却して忘れてしまう、と云う点なのです。プルーストの認識、恐るべき認識です。人は偉大なるもの、崇高なるものに対象的に語ることは出来ても、それを理解するためには自らもそれを理解する時だけは偉大な存在の水準になっていなければならない、プルーストが言わんとすることはこういうことなのですね。ですからスノップの代表のように揶揄的にも滑稽にも笑い飛ばして描かれる子タール医師の妻が零落したスワンに再会して会釈する場面の崇高さは、本人が意識していないだけ立派なのです。しかも彼女の立派さが、やがて夫の裏切りと云う報いを受けなければならない哀れさを既に知っている読者としては、この瞬間だけに現れている断層の輝かしさが、儚く、悲しく、その感動は長い余韻を残すのです。
 同じくスノップの代表であるルグランタン兄妹をめぐるプルーストの記述に於いても同様です。有能な技術者であるにもかかわらずこと文学趣味に於いては甘ったるい感受性しか持たないルグランタン氏は笑うべき存在なのであろうか。また、後には上昇志向の権化のようになる妹が下級貴族に嫁いで、少しずつではあるけれども階級の階段を高めてひとかどの社交界人となったとき、彼女から失われてしまったものは何だったのだろうか。彼女のスノビズムは笑ってしまえるほどの重みのないものに過ぎなかったのだろうか。
 作者プルーストの眼は、これらの人間たちの愚かさも含めた存在の重たさに潤んでいるように私には見えるのですが。
 また、必ずしもプルーストによって共感を持っては描かれなかった人たち、――例えば使用人のフランソワーズやレオニ叔母などの描写の卓越に至っては、彼女たちの実在の重さが梃子でも動かないほどの堅牢さに覆われていることが見て取れます。自分の子供や甥が病気にかかると狂気のような心配性に取らわれるフランソワーズが、こと使用人たちに向ける意地の悪さ、冷酷さなど。あるいは生けるミイラの如く室内に閉じこもりながらも、かつコンブレーの人びとを支配する老婆の眼に見えない権威と権力の構造など、凡庸なリアリズム作家のよく描くところではないのです。プルーストの悪魔的な記述は、ヘンリー・ジェイムズのように神話的な悪意と云うものがないだけに、より一層不気味な感じもいたします。

 恋や愛を語るマルセル・プルーストの巧みさは『スワンの恋』において恋の概念知をある種の恋愛論として総括的に語ったあとに、自らの初恋のエピソードを書き加え書き連ね、重ね合わせて語り積もる叙述の方法に於いて、二つの離れてある隔離された固有の各々の時間を、ある対比と類比関係において結び合わせ、時間の遠近法とも云える広がりの星座のなかに、愛とロマンとを記憶の中に配置するのです。
 とりわけ『スワンの家の方』の第三部「土地の名――名」におけるスワン夫人の光彩陸離、豪華絢爛の描写は見事なものがあります。彼女が娼婦上がりであり、パリジャンのシックと云う点からは少々の問題があっても、それを噂する大人たちの視線や世間評価に反して、彼女を描写するプルーストの眼が持つ暖かさ、それは世人が持つ世人性をも辛辣に表現しながら、記憶と忘却のけぶりのなかの山査子の道にかって見た、山査子の花が咲き誇れる春の戴冠とも云える荘厳なる華の儀式、華の典礼、その秘儀にあづかる華の祭壇が、ひとり己を孤独に孤高に於いて保つ、典礼的祝祭的絢爛豪華さと比肩するほどのものであったのです。

 一介の娼婦、――のちに高級娼婦に格上げされたとはいえ――そのたかが売春婦を、かほどにも高貴さと高雅さの光源のもとに描き得たと云うことは、プルーストの何並みならぬ個性、並々ならぬ彼の特殊な主観や趣向の問題を超えて、如何なる平凡な人間と云えども、時間の遠近法に於いて見る時には、過行く時間の断層に於いて屈折を通して垣間見させる希有の瞬間、――それは天才的とも、王侯的とも王者的とも云える瞬間があることを、人間観察の巧者プルーストが熟知していたからにほかなりません。