アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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つまらない小説を書いた作者はつまらない人か――近代小説『クレーヴの奥方』の三種三層三重構造の読み アリアドネ・アーカイブスより

つまらない小説を書いた作者はつまらない人か――近代小説『クレーヴの奥方』の三種三層三重構造の読み
2018-07-17 08:35:27
テーマ:文学と思想

(要旨)
 貞女と云う概念に愚かしくも殉じたある女の生涯と、それを外部から語る主義主張の喧しいイデオロギー教条主義的硬直性、愚かさは愚かさのままに、観念や概念を主義として主張するのではなく、単なる政治術として、権謀術数渦巻く複雑怪奇の宮廷生活の歳時記を生き抜くすべとして、季節の移り変わりにもにた華麗なる王朝絵巻のたゆとう時代を背景として、生きるか死ぬかの過酷な政治的男たちの論理がまかり通る、ある意味で苛烈!で過酷な!世の中を、貞操と云う概念をただひとつの武器として、宝として、家訓として、汎用の治世術として用いることで生き抜いたラファイエット夫人の男勝りの生涯をどのように評価したらよいのだろうか。

 その生涯は偉大であった、と云われるのかもしれない。しかし、私はそのような女性と付き合ってみたいとは思わないでだろう。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 『クレーブの奥方』を読んでみよう。
 先回は散々に書いたが、フランスの近代メロドラマの三角構造を造った先鞭的存在としても特筆されるべきかもしれない。
 主人公は貞女の鏡のようなクレーブの奥方。彼女と秘められた愛のロマンスを交感する相手は誰が見ても誉めそやされずにはおかない美男にして武勇の主、ヌムール公、翻って寝取られそうな方の旦那は、これがまた美貌こそ劣れ、それ以外の点ではヌムール公以上の志高い善き旦那殿であり、理性と聖人君主のような夫君の人が良いのをいいことに、自らが晒されているよろめきの心理を、誰であろう旦那殿に相談してしまう。また旦那殿にしても、妻の理性的な態度に非情なショックを受けるのだが、自分の人格の高潔さが前提された上での、妻の申し出であるがゆえに、妻の良き意図もそれなりに評価しなければならないと云う、ややこしい事情に巻き込まれる。ついには、前代未聞の複雑な事情に翻弄されて、志し高き武勇の誉れ高き御仁は死んでしまう。表面では妻の理性的態度を評価しながら、死の床に及んでは思わず愚痴が出てしまう、と云う無残な在り方で。
 ところで、この偉大なフランス古典の結びの言葉は次のようである。

 ”クレーヴ夫人の生涯は・・・・・類のない徳の規範を残したのである” 

 つまりこれはラファイエット夫人の理想ですね。理想と云うより手前勝手過ぎて、夢想と云うものに近い。
 女として生まれて、類なき稀な美男の恋人を持つ。一方夫は妻のよろめきを、妻の心理の苦渋を読み取って、自らの感情は殺して、あくまでも理性的に支えてくれる。こんな理想的な環境にあったら、女冥利に尽きると云うものでしょうに、それが作中の主人公の突き上げてくる感慨を述べる叙述に寄れば、針の上の筵にも座るほどの地獄の責め苦に近いのだとか。それはそうでしょう。彼女の決断を受け入れて旦那は衰弱死してしまうし、もう一人の美男は生涯付き合わされるべき、独身を貫かされてしまう羽目になるのだから。

 この理想的な三角関係を描いたメロドラマを、登場人物、作者の眼、作家と云う存在の外部にいたラファイエット夫人と云う三様の視点から、その三層構造を近代小説の読み方への試み、一試論として読んでみよう。

 登場人物の次元、つまり物語世界の内部に生きて読むとは、ある意味では作者の意図に沿って解読することであり、作家の意図を文法どおりに正確に読むと云う意味では、批評の基本になるものである。つまり作者はどういう物語を書きたかったのであるか、と云う意味で。それは先述したように、類まれなる貞女の鏡と見えるクレーヴの奥方について、その苦渋に満ちた生涯を描くことである。これは書こうと意図された物語である。センター試験風に云えば「作者は何を語ろうとしているのか」と云うことになる。
 他方、作者の主観的な意図を超えて、表現された限りに於ける物語の読み方、と云うものも成立する。つまり書かれた物語についての物語である。実を言うと、先のブログの記事は、この観点から書かれた批評であったことが分かる。この読み方から見えてくるものは、自分を取り巻く愛の環境の理想を保つために、どっちつかずの曖昧さを維持する妻の利己性と、それを理性に訴えて夫を説得してしまう押しの強さと、他方では餌をちらつかせて希望があるかのように生涯の終わりまで恋人を引っ張って行く強引さである。
 つまり、近代の理性とはかくも自らの利己性を隠蔽するのに巧みであり、かつなされたことの結果責任は全て自分以外のものが取ってくれるシステムであるらしい。そのシステムをこの小説のキーになった言葉を用いれば、徳の論理、と云うことになる。

 それではここまで主人公であるクレーヴの奥方の秘められた心理が暴露され、彼女の二律背反に突き合わされてツケを取らされた男たちの迷惑物語として読むときに、この小説がそれほどつまらないか、と云えばそうも言えない。
 つまり、読みようによっては、このように近代的理性の自己矛盾を読み取れるように描かれているという意味では、小説としての客観性に優れているのである。何となれば作者である夫人は最後まで奥方の優柔不断さを描ききり、意志強固な、本当の意味での理性人としても決断の人とも描いていないからである。夫を死に追いやったとき、彼女はこれで自由になれたのだと思うのではななく、反って自由な恋愛が不可能になったことを理解する。つまり最後に、その悩みが彼女だけに属する実存的な悩みであることを理解するようになる。他方、彼女を取り巻く男たちの世界の論理は、条件が整った今こそ今までの行きがかりを捨てて、幸せになることを選択すべきだ、と云うものである。これも一理ある考え方で、ここでもよろめき続ける奥方は、最後まで修道院生活に退避することも根本的な次元においては選ぶことができず、人目を避けた別荘での生活と半々に、つまり曖昧さのままに、悩みを抱えた生き方を自らに強いると云う生き方をするのである。そして他方に於いては、かかる彼女の生き方が意志堅固であるかのようにも見え、それで規範ともなりうべく貞女の生涯、と云うことになったのである。
 矛盾を矛盾のままに描いたという功績は、然しながら奥方のせいではない。それを書く描こうとした作者であるラファイエット夫人の功績なのである。物語作者のナイーブでウエットに富んだ書き方にも関わらず、三人三様の愚かさは、愚かであることを超えて哀れですらある。それはどの登場人物に於いても、生涯の収支が付けられず、ついに作者のレアリズムはかれらに救済と云う名の恩典を与えないのである。

 しかしながら、愚かさの物語と見えたものが、それが利害を超越した外部の眼の者たちから見れば、一転して規範の物語となる。この錬金術的変貌こそこの小説の真骨頂かも知れない。
 この外部の眼こそ、この小説が表面上において垂れ流しているイデオロギーであり、かかるイデオロギーこそ、爛熟したフランス王朝期の複雑な宮廷内の事情を一個の政治術として巧みに生きざるを得なかったラファイエット夫人の知恵なのである。小説を読みながら彼らの時代背景を、その背後にあったフランス近世史の事情と重ねて読むとき、彼ら宮廷人の過酷とも云える運命の浮き沈みの無情さ、非情さに思い当たらないわけにはいかない。そういうことが明示的には書いてないからこそ、よりひと際強く感じさせられるのである。
 かかる賢者の生き方を、愚か者ことは呼ばわりすることは誰にもできない。他方、賢女によって書かれた小説は書かれた内容ほどには愚かな造り物ではなく、近代文学の内面性の原型を形造らせたという意味では、資料として大変に興味深い。例えばフランソワーズ・サガンの文学なども明かにかかる賢女の伝統の上にある。『優しい関係』など設定が瓜二つである。

 『クレーヴの奥方』とは、フランス風よろめきの心理小説などではなく、背景となった権謀術数渦巻く宮廷史の一齣として読むときはじめてリアリスティックな読み物となる。『クレーブの奥方』を読み得たと云うものたちはいままでどこをどう読んでいたのだろうか。


 
(付記)
 物語世界を読み解く三種三層三重構造とは、登場人物三人が様々に三様に描かれ、メタレベルの読み方を地平に入れつつ、
①書こうと意図された物語(プレテクスト論)、
②書かれた限りでの物語(テクスト論)、
③物語世界を超えて歴史の脈絡のなかに再構築された作家のメタレベルの物語(メタテクスト論)と、さらには――
④小説の外側に形成された作者の自伝史の廻りに形成された”伝説”と、かように多様な超メタレベルの読み方が可能である。例えば我が国の私小説と云うジャンルや、”漱石山房”と云うような形で神格化された、”文豪”の文学外論?なども極端な事例ではあるが、この範疇に含む!(ポストテクスト論)
 批評と精神の自由度が持つ、多義性、多元性、多様性のことを言っているつもりである。