アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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日本・悪徳の栄え――2018年夏・モリカケ問題、日大アメフト部、オウム真理教死刑囚の刑の執行など アリアドネ・アーカイブスより

日本・悪徳の栄え――2018年夏・モリカケ問題、日大アメフト部、オウム真理教死刑囚の刑の執行など
2018-07-26 14:55:18
テーマ:文学と思想


 森友、加計問題に加えて今年の夏は、日大アメフト部の問題、オウム真理教の十三人の死刑執行と、いっけんランダムに続き、気持ちの悪い情報が飛び交った。

 黙して語らぬ日大・田中理事長。――顔写真から見る面魂の迫力!これは「忖度」の問題を超えて、民主主義の根幹に係る「暴力」の問題にまで及んでいる。
 内田前監督とコーチ陣。指示があったのか、なかったのか。何やら似ていると思ったら、首相一家の「言葉による淫行と汚染」を一部の人間は保留を付けながらも、一瞬、思い浮かべたのであろう。似ているようでいて、似ていない。似ていないようで根幹に似たものがある。日本社会に蔓延する病理の根幹のものとは何か。そして極め付きはオウム真理教の死刑執行。二十数年前の事件そのものは、「暴力擬き」ではなく、正真正銘の暴力の世界を出現させたのであったが、しかし事件の、最後の刑の執行がなぜこの時期に?様々に云われているが、昭和史における魔王格とも云える暴力の問題が、ここで自ずから自らを自己顕示させたのではなかろうか。秋の総裁選などは穿った見方もある一方で、この時期における象徴性、と云う意味では些細な出来事に過ぎない。

 それにしても似ていないようで似ている!麻原彰晃の直接の指示はどういう形であったのか。日大・田中英寿理事長の内田前監督たちへの関与の度合いはどのようであったのか。これについては公論が曲がりなりにも機能している民主国家では考えられないことだが、現在異議申し立てが進行中であるそうだ。この悪の厚顔無恥な押しの強さと云う点も、なにやらに大変に似ている。最後の極め付きのおおトリに、「忖度」の語の定義に一世を画したかに見える安倍晋三氏の深遠なる国語問題――安倍ファミリーの関与は如何ほどか。日本国民は初めて「忖度」の語の定義について考え、内閣総理大臣の公私にわたる役割について考えた。公人とは何か、私人とは何か?結果的に国民は反面教師的に義務教育以来の国語の学習をさせられて大いに役するところもあったわけだが、これについては関与はなかったという方向で大筋は進みそうである。つまり粘り勝ちである。それを横目に見て、田中永寿氏は俺もこれで行こう!と思ったか否か。

 主客の正体が分からず、周辺の疑わしき人物が人身御供のように部分的に罰せられ、裏口から刑期勤めをこと挙げされて秘かに出ていく。まるで刑務所の風景か何かのようであるが、実際は日本政界の表舞台の話しなのである。

 安倍晋三氏が以前より健康にすぐれないのは同情申し上げるが、その結果と云えば皮膚のゴワゴワ感が残った。まるで人造皮膚に似せた高級皮革のゴワゴワ感、人口の皮膚が振る歳月、つもり重なって幾層にも年輪の如く重なって、生身の人間としての実感が壊死してなくなってしまう、そう云う病理的な印象を記者会見の折に何時も感じる。本音が偽りの鎧で幾重にも覆われ駅た結果、皮膚と肉体組織が立場を変換しあって、人造の比較の方にこそ、「本質」があると云う塩梅なのである。嘘を言っているうちに、自分の演技が入魂の域に達して信じてしまうと云う現象が演劇界ではあると聴くが、政界でもあるのかもしれない。
 結局、友人の加計孝太郎氏と会食をしたリゴルフをしたリしたことがそんなに悪いことだろうか。昭恵氏が夫のために自分の立場を利用してくれと云ったにしても、真理の自然としてそう不自然なことだろうか。安倍夫妻は単なる一国民の一人ではないのだから、立場を弁えよという意見もあるけれども、元々、かかる高潔な人間として選んで国民は投票したのだろうか。自慢できることではないけれども、外交を犠牲にしてまで論議する話題とも思えない。――自民党寄りの方も私同様にこう言うのである。
 これに比べれば日大のアメフト問題は性格も大部違うと言われるかもしれない。出会いがしらの感情の激昂によって暴力の問題が曳き起こされたのではなく、戦略や先述の問題として、あるいはそれを超えて一元的政治支配を担保するための「感情教育」の一環として、長年月渡って行われていたらしい、――と、こうである。
 日大アメフト部の問題は、安倍政権がポピュリスムの飴と鞭のイデオロギーの背後に隠してきた「暴力」の問題を顕在化したに過ぎないのではなかろうか。どちらがどちらに影響されたというのではなく、体質的に同根同列の問題であったのではなかろうか。田中永寿や内田前監督が人格的にどうであったかと云うよりも、組織のなかで身に付け、さらには組織と一体感のなかで醸造された悪しき自己保全型の細胞が、最後には組織全体に蔓延させる、と云う事態が生じていたのではなかろうか。
 もちろん、安倍晋三と田中永寿や麻原彰晃の問題を同列に、類比的に語ることはできない。暴力への意欲を持ち、あるいは顕在化させたと云うこととは次元が違うからである。しかし、言葉の問題に限って言えば、論より行動のキャッチフレーズ、アカデミズムや法曹界への攻撃と軽蔑的言動などは、民主主義の根幹にある言語観への大胆な挑戦とも見て取れるものである。
 民主主義の根幹などと難しく言わなくても良い。加計孝太郎氏との交際、夫人の文科省と官邸への働きかけ、不用意であったと言えば済むものを、言い逃れをする、庶民そのものとも云える抜け目のない倫理感覚、一個の自身の嘘のために多くの人間に嘘を吐かせてもなんら恥じることのない感性、それが血管と皮膚のぶよぶよ感の間にある問題なのである。
 公的に選ばれたものが庶民的であることは望ましいことであるだろう。しかし庶民そのものになってはいけないのである。

 日大執行部のかたくなな沈黙、そして執行された十三人の死刑囚たち、事件が及ぼした影響の大きさゆえ是非については様々な論議は尽くされると思われるが、それにしても戦後例を見ない、同月に十三名の死刑を執行すると云う事態は、国家の本質がいまだ暴力と云う基礎の上に立っていることを、歴然と思い出させるのである。
 2018年の夏とは、政権が、国際世論の大勢に抗して、国家の本質(暴力)を見せしめとして国民の目の前に晒した事件だったのである。