アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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フランス映画『ダンケルク』1964年 アリアドネ・アーカイブスより

フランス映画『ダンケルク』1964年
2018-07-29 23:14:42
テーマ:映画と演劇


 ジャンポール・ベルモンド主演の『ダンケルク』は高校生の時みた。封切館で観たので、ほぼ半世紀余をの期間を配しての再鑑賞と云うことになる。
 殆ど忘れていた。覚えていたのは砂丘を暗い兵士の縦列行進が幾重にも蛇行し、それにドイツ空軍の爆撃と機銃掃射が波状に襲来し、長い浜辺に遺体だけが斑点模様のように残されてある、と云うことだけでしたね。一世を風靡した感もあったカトリーヌ・スパークが出てくる最後のロマンティックなシーンがあるが、そのときも今も、たいして重要だとは思ってはいない。描かれた内容とは異質なのである。
 それにしても、砂丘を行軍する縦列体の蛇行運動と、放棄された銃火砲器、戦車や夥しい軍用車両が点在する荒涼とした風景が、なぜか詩情を帯びて美しい。死の世界の荒涼がたまらなかく素晴らしい。
 なぜ美しいのか。それはベルモンド演じる青年軍曹の気持ちが美しいからである。戦争に綺麗ごとは必要ではないかもしれないが、今日から見ると、彼がくそ真面目で一途なほど美しい。その美しい青年が行きがかりから人を殺してしまうし、ついでに誘われるがままに娘との間に強姦擬きも演じてしまうし、それらの自分の犯した行為すら周囲から合理化されてしまう。フランスモラリズムの伝統に則って、近代の戦争から如何なる教訓も導き出しえない、と語っているかのようである。こういう映画を、シャルル・ドゴール以下の熱意により、準国策映画として造られた経緯が素晴らしい。
 青年軍曹の性格の美しさだけではなく、映画では幾つかの悲しくも美しいエピソードが連ねられてある。日々、生還の望みが断たれていく絶望の淵に隣接して、包囲されてあるダンケルク砂丘で共同生活をする彼の小グループ。そこには牧師兼衛生兵もいるし、調理兵もいる。料理兵には美しい妻がいていつの日かの再会を望んでいる。それが叶えられる希望が次第に遠のいているからこそ美しいのだとも云える。その彼は貴重な水が入ったバケツを青年が零してしまったので、彼が汲みに行こうと云うのを差し止めて、自分が行ってそこで不幸にも爆撃にあって不慮の死を遂げる。牧師兼衛生兵は、敵との接近戦で、行きがかり上少年兵を殺してしまう。美しい青い瞳でこちらを見つめていたのだという。エピソードのなかで特に哀れなのは、イギリス兵とフランスの現地妻の逃避行だろう。イギリス兵だから舟に乗る権利はあるのだが、軍規によってフランスの女性は認められないと云う。その後いろいろの経緯があって、どうにか船に乗れて、青年が親しくなったイギリス人将校にも黙認してもらって、上機嫌の将校の勧めで紅茶を船の厨房に取りに行った間に船は爆撃を受ける。火炎を吹き上げて傾きつつある汽船、燃盛る甲板に引き返す彼を引き戻しながらも、先に海に飛び込んだ青年の呼びかけにもかかわらず、彼は炎のなかに消えていった。
 これらのエピソードの間に、先の『ダンケルク』2017年のように、青年の執拗なダンケルク脱出のエピソードが重ねて語られる。最終的には、彼は後に最初の仲間のところに帰って「地獄を見てきた」と語ったように、ダンケルクを脱出しようと云う意思そのものを無くしたかのように見える。そしてこの段階で、爆撃の町で親しくなった娘を強姦しようとしていた二人のフランス兵を射殺する偶然の局面を演じることになる。殺人は殺したことの呵責よりも、殺人が容易に行いうると云う厳然たる事実の方に驚く!仲間は当然のことだと理解を示してくれる。襲われた方の娘もまた当然だと云う口吻で語る。しかし殺人がかくも容易に行われ得ると云うことに彼は釈然としない。釈然としないと云うよりも、殺人を犯した当の当人は自分自身であるにも関わらず。
 ここまで見てきて、この映画が先のイギリス映画の、ダンケルクからの栄光ある撤退作戦を描いたものではなく、イギリス軍による撤退がほぼ終了したのちに、残されていくフランス軍の物語であったことに気づく。このあ多分と町と陣地は徹底的に破壊され、数日後にはパリが陥落する、と云う冷厳たる歴史的事実がある。袋小路のダンケルクの海岸は風雲急を告げていたのである。
 映画の最後の方で、生き残った三人の仲間の行先が語られる。牧師兼衛生兵の年長の男は、猫の手も借りたいほどの激務が待ち構えている野戦病院へ奉仕活動に行くのだと云う。もう一人は、はぐれてしまった小隊と再会を果たし、これからドイツ軍相手に転戦をしていくのだと云う。いずれにしても波濤の如く押し寄せるドイツ軍の電撃的な軍事行動の前に風前の灯火、と云った暗澹たる状況が暗示されているばかりであった。
 映画は、かかる極限状況を、騒ぐでもなく叫ぶでもなく淡々と詩情豊かに描いている。このあと降伏を余儀なくされたフランスにはレジスタンスの道が残されていたはずだが、そのことについても映画は全く語らない。語られるのは厭戦と生存の無意味さである。かかる事態を容認している神とヒューマニズムの理念への呪いだけである。

 フランス映画界は、イギリス映画やハリウッドのように、過酷な戦争映画であってもエンディングをヒューマニズムのおちで締めくくることを潔しとしなかった。これから執拗に闘われることになるレジスタンス運動そのものにしても、国内が戦場となるのであるから、一口に白黒と語れない苦渋の感情がフランス人にはあったのだろう。沖縄を除いて内地戦を経験しなかった日本人の想像力の埒外にある。
 それにしてもベルモンド演じる青年軍曹は、古典的モラリズムの手本のように清く正しく美しい。その彼が戦場では殺人者となり、合意の元とは言え強姦擬きを娘との間に演じることになる。強姦擬きの状況に巻き込むことで婚約者を確保しようと云うチャッカリズムの持ち主なのであるが。
 最後の場面はひたすらに美しい。英軍が去った後の、つまりダンケルクにおける撤退作戦、いわゆるダイナモ作戦がほぼ終了したのちの、閑散とした浜辺が映し出される。そこには昨日まで居た筈の連合軍の兵士たちの姿は既にない。やがてそこに加えられる夥しい爆撃による最後の集中砲火。多分町も炎に包まれている頃だろう。爆撃を受けて巨大な砂の穴ぼこの縁に傷ついて力尽きた彼の姿が映し出される。実を言うと昨日、娘とこの町を出ようと約束をしていたのだった。明日の午後七時と云う時間の指定が私にはよく分からないが、多分、ドイツ軍によるダンケルクーカレー方面への総攻撃の時刻と関係があるのかもしれない。
 爆撃が終わった後の荒涼とした砂浜の彼方から両手にトランクを提げた娘の姿を認めたところで彼は息絶える。今わの際の彼が娘の影を認めようと体を回転するのに応じて、カメラも静かに同調する。ここで映画は終わる。余韻を残したエンディングではあるが非現実的な終わり方である。
 頼みとする青年は死んだのであるから、戦場に残された娘は今後をどのようにして生き延びていくのであろうか。彼は婚約すると娘に嘘を言って危険な民家から彼女を呼び出すのだが、ダンケルクの砂浜がそれ以上に安全だとは誰しも思わないだろう。それにラブストーリーとしてこの挿話を語るにしては、二人の精神生活の程度が余りにも違いすぎる。簡単に人二人殺してしまった重みを彼女は理解していないかのようである。未成年なら誰しもそうかもしれない。世間並みの倫理観で、強姦しようとする人間は下劣であり、殺されても当然であると思って疑わないのである。そこのところを制作の側はどう思っているのかが最後まで分からなかった。当時の一世を風靡した人気女優を客寄せのために使ったとしか思えないのだが。