アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ダンケルクーーイギリス映画とフランス映画 アリアドネ・アーカイブスより

ダンケルクーーイギリス映画とフランス映画
2018-07-31 10:26:55
テーマ:映画と演劇


 二つの『ダンケルク』、それなりに味わいのある作品です。
 ひとつは、フランスとイタリアの合作映画。主演は全盛期のジャン・ポール・ベルモンド。もう一つは日本では知名度の低い複数の俳優からなるイギリス他の合作映画。それぞれの観点からダンケルク撤退作戦が描かれていますが、フランス映画の方は平和と云うよりも厭戦思想、近代戦争には如何なる教訓ももたらさないと云う冷徹な認識があり、後者には人は懸命に自分の守備範囲で奮闘するも、偶然が持つ力の偉大さに対する賛美と、それを促すのも微力たりとはいえ、人間的な営為であることが語られる。観念的に厭戦の思想を語るだけでは平和主義者たりえないと云う楽天思想がある。

 第二次大戦を前後に於いて区切る画期としての、ダンケルクノルマンディ上陸作戦、その一つの峰であったダンケルクの意義を、当事者国であったフランスは語らず、当然のことながらイギリスに於いては戦後の解放を念頭において、意義深く語られる。フランス映画に於いては、軍事車両が乗り捨てられた荒涼とした砂浜を行軍する兵士たちの縦列行進、後者に於いては執拗に波止場に向かう桟橋に鈴なりになった英国兵士たちの群像である。なぜ英国の兵士たちかと云えば、フランス軍は当面は英軍優先の建前の元、乗船する権利を持たなかったからである。ダンケルクと云えば、それは大規模撤退作戦と云うことになるが、取り残されたフランス軍にみる、イギリスへの逃避行を望まない、あるいは断念したグループがある段階までは半々いたようなのである。しかしフランス軍の戦意喪失の原因がどこにあるのか、少なくとも後の激越なレジスタンス運動に繋がるような熱気をこの映画に感じることはできない。

 フランス映画『ダンケルク』は、実存思想の国に相応しく無意味なまま死ぬ。彼が平時であればリゾート地である筈のダンケルクに辿り着き、浜辺と町を彷徨った数日間の彷徨が悲しい。
 この映画は出来栄えとしてはいまいちだが、再鑑賞に堪ええるものになっている理由は、ジャン・ポール・ベルっモンドの自然な演技にある。過酷で悲惨な現実のなかにあって、少々のユーモアとペーソスを交えながら、結局、彼は大まじめなのである。捻くれた映画の観客からすれば反撥も出そうなほど、その生き方は、清く、美しい。美男と云うよりもむしろ醜男に近い表情と、いっけんそれとアンバランスな羊のような眼差しの優しさが印象的である。
 対するにイギリス映画の方は、革新的な技法が用いられている。つまり物事を決して俯瞰的には物語らないと云うある種の禁欲を製作者側は己に課しているようである。戦場に一兵卒として投げ込まれた時、十弾と放火の閃光のなかで、状況内存在としての自分に環境はどのように立ち現れてくるのか。冒頭の逃げ惑う二等兵の戦士を執拗に追跡する銃火の描写は、客観的に評価するならばドイツ軍がたかが二等兵戦士ひとりにかかる関心を抱くことはあり得ない。銃火砲の追撃は、彼が逃げ惑う門扉や建物の陰にまで執拗に食い下がってくる。まるで彼が透明な環境に置かれて内外が見透かされているかのように!つまり、執拗な銃火砲の追跡があるのは、彼が映画の「主人公」であるがためではない。前後の脈絡を欠いて状況内存在としての環境下におかれた一兵卒の眼には戦場が「そのように見えた」と云うことを語る、固有の映画文法なのである。
 対するにフランス映画の方が俯瞰描写を多用しているのとは対照的である。俯瞰的姿勢は、主人公が大破した軍用車両や隊列行進を繰り返す兵士たちの脇を通り過ぎる場面に於いても、つまりカメラが地上に降りてきていても、意識としては俯瞰的見方であることには変わらない。つまりここで用いられているのは、物事が過去家になった段階で語るべきものを後世に伝えたいと思う場合の叙事詩的な文法が用いられているためである。それは西洋文藝の基本である、永遠の現在と云う視点とも関係している。死に等しいほどの永遠の立場から戦場の無意味が語られる。
 それでもほぼ半世紀を超える時間を経由して見直したジャン・ポール・ベルモンドの魅力を見直しした。彼は色んな役に挑戦したが、この作や『モラン神父』でみせたシリアスな役柄がやはり抜群にいい。思うにならぬ運命を愛おしみ悲しむような寡黙さが良い。その良さが現れた映画の一篇である。