アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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フロマンタン『ドミニック』1862 アリアドネ・アーカイブスより

フロマンタン『ドミニック』1862
2018-08-12 18:03:10
テーマ:文学と思想


 フロマンタンの『ドミニック』は私には味読が難しい本である。予感に満ちた青春の書としての美しい自然描写で始まる導入部、瑞々しい自然の発見とは、人間の自然の物語であるのだ。わが国の自然主義の定義が不明瞭なのは、自然の概念が必ずしもナチュラルな自然を意味すするだけでなく、人間の自然を意味することにまで含意が及んでいないことによる。
 ところで人間の自然とは何だろうか。それを手っ取り早く云おうとすれば愛についての自然な感情の流布、と云うことになろうか。近代文学史の流れた同時に恋愛小説の歴史と重なる所以はこう云う点にも求められそうである。
 主要な登場人物は、ヒロインのマドレーヌを別とすれば、主人公のドミニック、彼を中心座標として考えれば、快楽や享楽の側にオリヴィエ、堅実真面目さの方に、オーギュスタン、となる。この二たりの副主人公たちは独立した人格と云うよりも、自らを世の中の余計ものとして揺らぎ続けるドミニックの分身とも考えられる。
 この三人の関係を、内面性と云う観点からとらえれば、オリヴィエとオーギュスタンはともに、内面性の欠如として現れる。後者は、内面性やナイーヴさを市民社会的秩序と出世主義的な階段を昇るものとしては不要と考えるのであり、前者は、より即物的なエロティスムの鑑賞のためには内面性などは不要と考えるのである。
 他方、ヒロイン側のほうはどうかとみてみれば、マドレーヌ姉妹の存在がある。他に点景的人物としてドラマには直接には関わらないドミニックの現在の妻がいて、オーギュスタンの妻がいる。この二人は同型的造形と云う意味で観念的な存在である。

 青年が自己成長史の過程で、二人の友を持つ。一人は愛欲の望むがままに生きようとするオリヴィエ、――このようなドンファン型の人物は如何なる時代にもいるとも云えるし、これを近代史的な文脈の中で読むと、欲望の解放と云う意味で、人間の自然をそれなりに追求した過程とも云える。その生き方が遊蕩三昧に見えようとも、彼もまた近代と云う時代が生んだ求道者の一タイプなのである。彼は最後のほうで理由もなく自殺を遂げる。人生の無意味さと虚無に耐えられなかったと云うのだが、情緒纏綿と言い訳をしないのが潔くてよい。
 もう一人のオーギュスタンは、幼少の頃ドミニックの家庭教師をしていた時代からの付き合いであり、ある意味では家族を持たないドミニックの父親で兄であり教師であるという役柄である。この努力の割には立身が思いのままにならない辛酸、刻苦の人にして、最後は相当の社会的身分を手に入れたようである。このような人物もいつの時代にもいたと云えようが、近代史の文脈の中に於いて見ると、身分や生得的な格差から解き放されつつあった近代主義的な生き方の典型なのである。

 次にマドレーヌ姉妹についてみてみよう。
 彼女とドミニックの関係は、早く両親を失ったドミニックが一時身を寄せていた親戚の従妹たちである。年齢は一つ上で、当時の慣習に従って適齢期ともなれば身分の釣り合った男のもとに嫁いでいく。――そこから彼女に対する思慕を忘れることのできないドミニックの懊悩の日々が十数年間の長きに渡って続くのだが、この長さが普通の恋愛物語の登場人物たちとは異なっている。彼女は、恋人の役割の他に、身内を持たないドミニックの親切な姉の役割をも果たしたようである。叶わぬ恋も短期であればピュアな悲恋物語終結するのだが、長すぎると愛人関係にも粗が出てくる。彼女は最後には愛の告白めいたものを一瞬ではあれ吐露する場面を持つことになるが、それも夫に蔑ろにされた家庭環境の荒廃への反感なのか復讐なのか曖昧なところがある。

 結局、これを愛に関する物語であるのかどうか、と云う点では私は疑念を抱いている。
 ドミニックの謎めいた行動の背景には、ロマン主義的なヴェルテル体験と云う概念化された知識があったであろうし、それは『クレーヴの奥方』以来のモラリストの伝統をも踏まえた、伝統への多重化された動機もあったのかもしれない。この小説の恋愛小説としての不思議さは、永遠の恋人マドレーヌへの魅力がそう多くは語られていない点である。むしろドミニックの愛は人格的なものではなく、フランス的な愛の概念に対する汎神論的な愛ではなかったろうか。
 生身のマドレーヌとしては、ドミニックの愛の概念が持つ超越性と釣り合うためには、拒み続けるよりほかに処方がなかった、と云うところが正直なところではなかろうか。
 ドミニックの性格的な特徴は、ロマン主義的愛の高揚に対する臆病さ、愛を自意識の前に素直に肯定できないもどかしさがあった。つまり愛と自意識とを天秤にかけて曖昧たらざるを得ないのである。彼の愛に対する姿勢の曖昧さはそのまま彼の処世訓についても同様で、二人の友人オーギュスタンとオリヴィエとの間を揺れ続けるのである。
 この小説をアンドレ・ジッドの『狭き門』に似ているという意見があるが、私は違うと思う。愛がそのものとしては信頼できなくなったとき、人が神への愛も、人間への愛からも見放されたとき、何を基準に揺れ続ける己の実存を支えるか。『狭き門』は他律に寄らず、自らの自意識と良心にそれを求めるもの達の悲劇として描かれた。愛の純粋性や世俗的良識との間に幾重にも妥協の環を取り結ぶ世間知としての男になりおおせた男の物語とは違うのである。この小説を如何にありふれた男になりおおせたか、と云う批判的読みは、また別の時代の要請である。