アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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輔弼と忖度(ほひつとそんたく)――平成末期の社会景観、安倍晋三氏の政治風景 アリアドネ・アーカイブスより

輔弼と忖度(ほひつとそんたく)――平成末期の社会景観、安倍晋三氏の政治風景
2018-08-16 10:41:41
テーマ:政治と経済


 面白おかしくキャラクターを引き出す。安物のワイドしょいみて来た日本の社会。くだくだ書くまでもなく、森友学園問題と籠池氏、加計獣医学問題と首相と刎頸のともたる加計孝太郎氏、日大アメフト部の暴力沙汰の問題と田中栄寿氏の暴力団的雰囲気、日本アマチュアボクシング連盟山根明を巡る暴力団紛いの体質など、事件そのものに対する驚きとともに、「こと顕れてのち」の、人間群像の多様な人間模様が、その個性的な対応が動物園並みに興味深い。
 森友問題を例に取れば、かりに昭恵氏が便宜を図ってもらおうと影響力を行使したにしても、このこと自体は、人情としては自然である。問題なのは、取るに足らぬ些事――国の資産が無益に取り扱われた面は別に考えるとして――を廻って、一国の総理たる人物を含んだ複数の政治家や官僚たちに嘘を吐かせたこと、嘘のつき方が厚顔無恥とも云える強引さが国民の側に与えた印象である。つまり、古いこと技としては知られていた、嘘も突き通せば真実になる、と云うう「伝説」を国民は目の当たりにしたのである。その結果、嘘がまかり通る社会、嘘を吐き通せば後は根気と時間の問題と云わんばかりに、持久戦体制をとる、強気者が得する社会である。力の論理がまかり通るところでは、背後に言葉の無力がある。言葉の無力とは、言葉が支えていた倫理や道徳、価値観の崩壊である。
 私には安倍首相がとった粘りと持久戦的体質を見ながら、一国の首相が遣るのだから自分も見習おうと云う魂胆が萌したと思えてならない。森友学園の学校許認可や値引き問題をめぐる不明瞭さに於いてとられた作戦とは、ばれそうな嘘でも「悪魔の証明」と云う言説を立てに持久戦に持ち込めばそのうち時効が成立する、都合の悪いことは言質を取られないように沈黙するという作戦は、その後の加計孝太郎氏、日大の田中英寿氏、アマチュアボクシング連盟の――一部山根会長を除く、影の名脇役たちに共通するものなのである。

 (卑近な自分の例を引いておくと、私はバイクを運転していて車と出合い頭の事故に遭遇したことがあった。発見は私の方が早く、先方が左右の確認を省略して右折し、停車しているこちらに衝突してきた。警察に連絡を取り何事もなく終わるかと思われたが、示談をことわった段階から向こう側は俄かに態度が変化し専門家に委託して、「私の方が先方の車にぶつかってきた」と云うことになっていた。つまり嘘も突き通せばそのうち真実になると、持久戦に戦法を変えたのである。これは安倍晋三氏が正体を見せる前の出来事である。つまり下々の底辺の社会で生きるか死ぬかの生きている庶民の論理、言い換えれば庶民の悪知恵を、公的な社会でも使って使ってみようと云う発想のコペルニクス的転換があったのだと思う。
 私が言いたいのはこう云うことだ、――庶民が嘘を押し通す厚顔無恥な行為はあながち非難すべきではない、と云う点である。彼らの生きるか死ぬかの論理に従えば、己のエゴイズムを愛玩する趣味は生存のために必ずしも非難されるべきではないのである(品格とか品性は落ちるが)。しかし一国の首相たるものや国のエリート官僚が公的な場面で庶民化する事象はこれとは根本的に違っているのである。公的立場にあるものが庶民的であることは大いなる美徳であるが、庶民になりきってはならない。)

 平成と云う時代は間もなく終わりを告げるが、その時代末期を襲った逆じみたナンセンス劇が意味しているものは、事件そのものよりも、事件の周囲で戯れる雑菌たちのドラマが何を意味しているのか、と云う点だろう。それは二つあると思う。ひとつは安倍首相や昭恵氏や取り巻きの閣僚や官僚たちが嘘を言っているか否かと云う信義の問題を超えて、彼らにとってのある言葉の軽さの問題である。言葉が風化するとともに、それまで社会を支えていた倫理観や道徳観や価値観や慣習的なものごとが重みを失い、液状化をきたすのである。伝統が破壊され慣習化されたものに敬意を失った社会は、国際環境下に於いて外部への適応性を欠いた社会になりがちである、と云うのが過去私たちが学んだ教訓である。
 もう一つは、自分たちは必ずしも意識していないかもしれないが、徹底的に内向きの社会を造り上げてしまった盲目的な意志の存在である。盲目的意思を象徴的に体現した首相を頂点に奉げ持つ集合意識としての社会の存在である。日本は過去に大日本帝国と云う名の内向きの社会を生み出しているが、今後の将来を考える場合に極めて他者と外部を知らない社会を国際環境下に生み出しつつあるという点である。
 かって輔弼(ほひつ)と云う難しい言葉が戦前の日本の社会にはあった。大日本帝国憲法下では主体は天皇にあるが、その行為については責任が陛下に及ばないように臣下が自らの責任で提案し、実行し、結果責任をとると云うものである。つまり国母たる天皇の御恩に対して臣下がとるべき美徳と考えられた。言外に暗示的に含意されていることは、天皇は権利は有するけれども義務の概念には馴染まないと云う考え方である。他方、現下の日本国憲法ではこの考え方は一蹴され、国事行為については「助言と承認」と云う形に書き換えられた。つまり国民主権の建前から天皇は機能的に象徴たる存在であり、機能の在り方についても制限を受けると云う意味である。
 他方この社会は、昭和、平成と時代を振るに従って、「忖度」なる輔弼に似た概念を生み出しつつあるのである。輔弼も忖度も権利の概念は暗黙のうちに擁護しながら、他方義務の概念を注意深く主体から切り離そうと云う考え方である。その結果広範な形で責任を取らない社会と云うものが巨大な塊として出現する。