アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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サン=テグジュペリ『南方郵便機』或いは卓越した生を瞬間のなかに燃え尽きること アリアドネ・アーカイブスより

サン=テグジュペリ『南方郵便機』或いは卓越した生を瞬間のなかに燃え尽きること
2018-08-29 11:32:43
テーマ:文学と思想


 『南方郵便機』や『夜間飛行』などを読む場合は、背後にいるサンテグジュペリなる男の生き様をある程度想定しておいた方が有利だろう。無前提で味読することも可能だが、彼のような小説家の場合は伝記的事実やその他の周辺的な状況を幾らかは知っていた方が読書経験を助けるだろう。

 私たちはすでに彼が第二次大戦中、地中海沖に消息を絶ったことを知っている。半世紀以上もたってからかってのドイツ軍のメッサーシュミット乗りが撃墜の記憶を語ったらしいのだが、きっとこの男はサンテグジュペリの本を読んでいないか、良い読者ではなかったのだろう。文学史的には口を閉ざしていただいた方が人類のためには遥かに良かったのだ。夢のない凡庸な男である。えてしてナツィやドイツ軍にはこの手の小人物が多すぎるような気がする。

 そこでどうしてもサンテグジュペリの生涯を重ねて読むわけだが、実際には処女作である『南方郵便機』が遥かに後年の出来事を予言していたことになる。つまり処女作の描かれた出来事を夢遊病者のように作者が演技し実人生と云う舞台で再現することになる。

 こういう実作者とフィクションの関係を、予言と云う次元で語ってよいのかどうか分からないが、実際には、サンテグジュペリは自身の小説の登場人物の人生の終わり方に似せて自らを演じてみせた感がある。人生を芸術が模倣するのではなく人生が芸術を模倣するとは近代文学のイロニーの香りが漂う言説のひとつだが、サンテクジュペリの生涯がかかる言説を実際に生きてみせたのである。また、作家の処女作にはその小説家の全てがあると云い方も昔は耳にタコができるほど聞きなれた言説であったが、なるほどサンテクジュペリの生涯は処女作に向かって、時間軸を遡及する方向で熟成して行ったのである。そして彼の実人生の終わり方と処女作の終わり方が最後にはぴったりと重なると云う首尾一貫性、ある種の生き方の完璧なまでの美しさを、超越的に、目に見える形で示してみせたのである。人生の生き方がここまで完璧の域に達すれば処世とか経験とかは一義的には意味をなさないのである。
 まさに絵に描いたような人生、近代フランス文学作家の首尾一貫した起承転結の人生の終わり方であったとは言えるだろう。言行一致とはこのことを云うのだろう。

 主人公以外の人物についても触れておこう。
 主人公ジャック・ベニレスの生涯の物語の一部終始を語る「私」とは誰か?危険極まりない郵便飛行便のパイロットとして同僚の一部始終を知っているだけでなく、彼の幼年時代以来の来歴についても熟知している個の語り手は、主人公の分身、生の向こう側から語り掛ける運命と一体化した作者の分身なのだろう。この人物こそがあらゆる出来事の演じられる舞台なのであり、観客なのである。ベニレスは自らに刻印された死を語る語り手の視線から自由になることはできない。むしろ彼の視線を受け入れることによって、社会的には無能者であるかもしれない己の実存についてある形を与えることができる。
 ベレニスの永遠のマドンナ、永遠の許婚者であるジュヌヴィエ―ヴとは誰であるのか。二歳年上で幼なじみ、結婚生活に破綻し、唯一の愛息子を病死で喪う。それもベニレスとの情事の間に喪う、まるで罪の子供でもあるかのように。彼女は社会的な制裁を受けただけでなく、内面的にも痛手を受ける。この心理的な痛手の受け方の質がベレニスとの別れを決定的にする。
 彼女はベレニスのように生きる処世の仕方を聖と俗の単純な二元論で説明できるとは思っていない。彼女は二元論の手前にセンスや常識、その具象化されたものとしての家具やインテリア、意匠やファッションなどの半透明な幕を造成して、自分なりの小さな世界を造ってそこに生き得ると信じていた。しかし赤ん坊の死は彼女の中途半端な生き方を断罪して止まないのである。赤ん坊の死は単なる病死としてではなく、彼女自身の実存の根底を罪の女として告発して止まないのである。
 最後に小説の終わりに近い場面で砂漠に不時着した主人公を受け入れる中継基地の軍曹とは誰か。彼が世界のなかにおかれた空何的な位置は現地人の他は母国語で語り合う機会が一年以上も途絶えると云う、陸の孤島に住むロビンソンクルーソーの如きものがある。その彼に取ってベニレスのように不時着と云う偶然性との遭遇は神的な啓示に近いものがある。つまり軍曹のおかれた環境とは、単にサハラの西端の未開の土地に中継基地の管理者として常駐しているという空間的な問題なのではなく、文化と云う人間的な時間からも断絶しているという、時のロビンソンクルーソー的な在り方にある。そして彼のこうした在り方が、社会のはぐれものであるサンテグジュペリやベニレスのような男との間には運命的とも言える親和性の空間を醸しだすのである。
 こうした男らしさの空間、男らしさのピュアな論理、血の運命共同体的な濃密な雰囲気、濃厚な共同性的親和性を同性愛の前段階として理解することも理解可能だが、むしろ性差を超越していると云うことにこそ運命共同体の意味はある。近代以降意味と重みを増しつつある性差を超えた濃厚で濃密な血の運命共同体的な意味をどう考えるかは、――さらには三島由紀夫の問題を!―サンテクジュペリの問題を超えてしまうのでここで語ることは断念しよう。

 サンテクジュペリは、自らの内面が生み出したナルシスの泉に影を落とした自らの形姿に呪縛されたギリシア神話の少年のように、自らの処女作が持つ同心円的で且つ求心力的円心に向かう影をなぞる様に、あるいはなぞらえて生きることになるだろう。
 純粋で爽やかな青年ではあったと思うが、窮屈な生き方であったと思う。


(後記)
 分別もついて賢くなった大人がふと思い出したようにサンテクジュペリの本を読んである種の感慨にふける。とうに卒業して面白くも可笑しくもないはずなのだが、どっこいそうはいかない。
 私たちは過去を思い出し、自らの若き日を綱渡りするような曲芸人のような危惧感を抱いて、疼くような思いで回想することがある。あの頃は何であんなに後先も考えずに向こう見ずだったのだろう。なぜ結果はダークと分かっているのに利害損得の論理に逆らうような生き方を強いて選択したのか。純粋さだけを取り柄のように信じて、それを何か生涯の宝物か何かのように思って後生大事に青春の原理原則に殉じた。そんな時代に生きた自分自身の過去がまるで眼に見えるように眼前に蘇ってくる。もしあの時代に戻されて透明な同伴者として同席させられたならば、危なくてしょうがないと感じるだろうし、人生の折節の紆余曲折を辛くて見ていられないだろう。心がふるえるようにも少しだけ疼く遠い痛みの感覚!サンテクジュペリのような男の本を読むとはそういうことなのだ。こういう男の本を読むときに限って、人生の諸経験や世間知などは不要なのだ。
 誰かが言ったことかもしれないが、人生とは郷愁である。