アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ベルナノス『影の対話』或いは現代の聖女論 アリアドネ・アーカイブスより

ベルナノス『影の対話』或いは現代の聖女論
2018-08-30 15:25:57
テーマ:文学と思想


 ベルナノスの『影の対話』は映像のない、二人だけの影の対話である。
 内容は分かり易く言えば不義姦通、別様な説明の仕方を試みれば、現代における聖女の在り方である。
 二人の関係にはなぜかとても悲劇的で不自然な結末が予想される。男は二十三歳と明らかにされ、女のほうは小じわの存在が指摘されているからそれほど若くはないのだろう。彼らは田舎の別宅で偶然に出会う。二人は悲しみを通して互いを受け入れる。彼女は遠いヴェネツィア地方に起源を持つ古い名のある貴族の没落した末裔、男はそれなりに流行っている作家のようである。ただ会話を通して分かるのは、男の書いている本の内容とは似ても似つかない愛の次元に、愛の深みに囚われていることである。彼が書いているらしい恋愛小説など問題にするに堪えないのだ。
 二人の影の対話を読みながら朧気に理解できるのは、どうやら女が一生一代の決意をしたらしい事、その決行の日が明日だと云うことだけである。「明日ルウシェンヌでお待ちするわ。足歌の朝・・・・・あたし、ここから何も持って行かないわ。よくって、何もよ、何にも・・・・・『嘆願する娘たち』(アイスキュロスギリシア悲劇)のように切り髪で、むき出しの手のままで」
 愛のない結婚生活を送った娘が、女として成長して、二十三歳の青年と駆け落ちをする。その愚かな行為について如何なる弁明もしないし、愛にありがちの情熱や熱情、狂気すらもない。あるのは、他に先んじて卓越してあるという己の在り方であり、かかる女の自信は愛の性格故にこそある。愛が高まりを見せるとき、リルケが言うように対象すらも追い抜いてしまう。極言すれば無限なる愛とは単なる形容や美辞麗句ではなく、恋人すら必要としない時間が確実に、愛の錬金術的過程のある段階には暗黒として存在すると云うことだけなのだ。
 男は、女の固有な時間を理解したろうか。二人の年齢差ある恋人たちに幸せは訪れないだろう。愛の失墜は互いの裏切りにあるのでもなく互いの愛に固有の倦怠にあるのでもない。愛に固有の、愛が人間を超えるという性格に由来する。日本人の常識とは異なって愛とは情熱とか熱情とかとは正反対のものなのだ。愛と宗教とはそういう意味では似ているのだ。宗教性を理解しない人間にはこうした愛の形を理解することは難しい。かかる愛の形式は宗教体験が基層として積み重ねられた古い社会と伝統のなかでしか起こりえない。
 日本人に真の意味での恋愛が不可能であると云う意味はこう云う意味なのである。