アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ヴァージニア・ウルフ『自分だけの部屋』――黄昏のロンドン・30 アリアドネ・アーカイブスより

ヴァージニア・ウルフ『自分だけの部屋』――黄昏のロンドン・30
2019-05-04 10:20:11
テーマ:文学と思想


 1929年の『自分だけの部屋』は、有名な「年収500ポンドと鍵のかかる部屋」のキャッチフレーズで有名なヴァージニアの知的エッセーである。
 天才的ともいえる希有の小説家ヴァージニア。ウルフが個人としてはなにを考えていたか、この本を読むと小説の世界だけを逍遥していたのだけではわからない、彼女の側面の幾つかが分かる。
 そのひとつは、フェミニズムに関する言説である。彼女が大半を生きたヴィクトリア朝時代とその濃厚な雰囲気を漂わせたスティーヴン家に男社会の論理の典型を観る、そこに彼女なりのフェミニズムを対置するというのは分かり易い論理だろう。500ポンドと鍵のかかる部屋のフレーズは、彼女が望んでも得られなかった、前半生の経験を語っている。
 しかしフェミニストとしての彼女の重要さは、男だ女だと云う区別の論理が出てくることの、不幸について語っている。理性も感性もギリシアの遠いむかしから両性具有的でなければならなかった、これは彼女の信念である。男は女性の要素を併せ持つことでより男らしく知情意備わった全体性になることができるし、女性もまたそうである。かかる両性具有の経験を踏まえて、愛は一度は同性愛の段階を経由しなければならない、と書いたのは私である。現下の女性活躍社会社会は、小池百合子高市早苗、眼鏡の芋ねえちゃんこと稲田朋美など、違った意味での男性化した女性の繁殖期を産んだかの感があるが、男性の側からこうあって欲しいと願う願望に進んで自らを合わせ迎合する自己歪曲型の女性論は、男性具有的と云うよりも性差を欠いたサイボーグの論理である。ゲームやCGの世界でサイボーグが流行るのも同時並行的現象と云える。
 さて、この書ではヴァージニアのフェミニズムの論理を負うことの他に、シャーロット・ブロンテ論が興味深い。シャーロットとジェイン・オースティンエミリー・ブロンテとの違いは、彼女の――シャーロットのフェミニズム的な怒りが「純粋」文学としての理念の燃焼を妨げていると云うのである。彼女の男社会や環境世界に対する不満や鬱憤が彼女の者の見方を曇らせる。なんとなれば一流の作家とは、先記のオースティンやエミリー・ブロンテ、さらには偉大なるシェイクスピアのように、個人的雑念は芸術や美の前に完全に燃え尽きてしまわなければならない、と彼女は言うのである。
 分かり易く言えば、ヴァージニアの言う一流の文学とは、シェイクスピアやオースティンの作品群に見られるように、作者の跡を留めない、結果としてのニュートラルな感じ!と云うことになろうか。
 彼女の云うことはだいたいわかる。『灯台へ』や『波』がそう云うものを目指したつもりであると言いたいのであろう。しかし、彼女がシャーロット的要素とでも言えるものを、非文学的と評して排除したとき、彼女の精神の均衡も崩れたのではなかったろうか。
 シェイクスピアは別格として、漱石の文学論にみられるように、ロココ期のジェイン・オースティンの文学は異常に神格化しすぎたと云うことはないのだろうか。たとえば殆ど同時代を生きたゲーテの『若きウェルテルの悩み』と比べて、あなたはどちらの方を取るのか?と問うことを私は是非お勧めする。こんなことを言うと素人じみたモチーフをマニアの方から詮索されかねないのだが。因みに二人が生きた時代とは、フランス革命ナポレオン戦争の余波に揺れる時代であった。
 具体的言及はなくとも、果敢なる批評と云うべきである。