アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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映画『否定と肯定』――ホロコーストの真実をめぐる戦い アリアドネ・アーカイブスより

映画『否定と肯定』――ホロコーストの真実をめぐる戦い  アリアドネアーカイブスより
2019-06-08 11:26:11
テーマ:映画と演劇


 この映画は1996年の「アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件」をドキュメンタリータッチで描いている。複雑な法廷闘争を描いたものだから、わが国の司法制度との違いなどを念頭に於いて見れば興味は尽きないだろうが――①イギリスの名誉棄損法に於いては立証責任は訴えられたが側(被告)にあり、アメリカでは原告側にある。②わが国にはない、事務弁護士と法廷弁護士の違い‥など――また、登場人物たちが実在の人物をモデルにしていることから、リチャード・エヴァンス、アンソニー・ジュリアス、リチャード・ランプトンなどの興味ある人物の現代史的背景を調べてみるなどの専門的な作業をしてみることも興味深いだろう。
 私はそう云う専門的な作業は手に負えないので、主人公の「可憐な」大学教授、リップシュタット女史を中心にこの映画を整理してみる。

 この映画の冒頭に描かれるのは、リップシュタット女史のホロコーストに関する講義の風景から始まる。ところがそこに批判されている当のアーヴィングが登場して論戦を挑んでくる。ところが彼女の信条は、かかるホロコーストの否定論者とはまともに対話をしないと云うものである。つまりユダヤ人の彼女には、ホロコースト否定論者の主張が如何に理不尽であろうとも、彼らの口にする心無い言説によって受ける「生き残りのユダヤ人」が受ける心理的傷口は生々しい痛みを再現するだけなのである。意見は異なっていようとも共に真実を見出そうと云う姿勢が共通ならば「対話」は成立する。しかし当初から言説の相対化を戦略的な指標として持ち込んでくる否定論者たち、歴史の偽造者たち、歴史の改竄を目的意識的に目論む者たちを相手にしては、人の説得と云う努力は無力なのである。
 従って、――歴史の改竄者や偽造者たちは相手にしない、時間の無駄だから!そう思ってリップシュタット女史は学者としていままで生きてきたのである。、しかし、アメリカとイギリスの司法制度の違いを口実に巧妙に仕組まれたアーヴィングの側から出された告訴と云う事態には、正面から向き合って対応せざるを得なかったのである。

 この映画が描こうとしているのは、歴史の偽造行為や改竄者と云えども、――対応するのを時間の無駄と考えるのではなく――のさばらせてはならない、と云う点である。
 第二に、歴史的経験が生じてから七十余年も過ぎて風化していく過程で、ホロコーストそのものよりもホロコーストをめぐる「現代的な」賛否の構図の中において、文献に埋もれることなく、常に生きた経験が大事だ、生きた経験を基本に朱tぅ且つしなければならない、と云う点である。この映画でも、ロンドンに出向いた彼女を迎えた弁護士団が最初に持ちかけたのは、アウシュビッツの再訪であった。
 また映画の中で、戦略的にホロコーストの生存者の法廷証言を使わないと云う戦術のなかで、ある生存者との触れ合いが描かれている。生存者に発言を許さないことで何がアウシュビッツを論じることができるのだろうか。しかしそれは真理を探究する場では必須のことではあっても、真理の偽造者、歴史の改竄を目的とする集団を相手とする場合は必ずしも有利とはならない。
 裁判が、何が真実であるかを問いうる真摯な場であるならともかく、作為的に真実を偽造しようとする目的集団を相手にする場合は、生存者やリップシュタット女史のような熱しやすい人柄の場合は、容易に相手に言葉尻を取られて相手の術作中に取り込まれてしまいかねないからである。相手は、どんな小さなことでも記憶の曖昧さを見つけてはそれを口実に証言者の証言全体の信憑性の疑わしさ、と云うことを主張しかねないのである。こうしたプロの心無い手法に証言者の心は深く傷つく、それこそがホロコースト否定論者の目論見なのである。

 理不尽な相手と相対せざるを得ない場合は、こちら側もかのウェーバーの言うように、狡知に闌けていなければならない。相手が策術を弄するのであれば、純情は一旦脇において、相手の策術に学び精通する専門家とならなければならない。真実は何時かは勝つなどと呑気なことは言っておられない。不道徳な相手をこれ以上のさばらせないためには、とにかく、第一歩としては相手の遣り方を熟知し、相手の策術に精通し、ともかく勝つことが必要なのである。裁判とは真理探究の場ではなく、その準備作業に過ぎないと割り切ることが必要なのである。
 同時にリップシュタットは言葉や真実を怖れてはならないことを学んでいく。現代の、価値の多様性を説く寛容主義こそが実は問題なのだ。実際にあったことを、ちょっとした記憶の瑕疵ゆえに真実ではないかもしれないと思わせる。真実は一つではないのかもしれないなどと思わせる。あるいは如何なる場合も、嘘と分かっていても主張してみる。主張してみて相手の反応を確かめながら、五分五分に持っていければしめたもの、相手が披露するまで、疲れ切って何も言わないようになるまでデマゴギーを主張し押し通せば、嘘もそのうち真実に等しくなろうというものである。
 こした出来事はわが国でも実際に生じていることなのである。

 この映画は、ホロコーストの第三世代――つまり戦争体験だけでなく、記憶も生きた経験としては持たない新しい世代を生きてきた大学教授リップシュタット女史の、アカデミズムと云う狭い領域に生きてきた彼女が、裁判を通じて言葉の真実に出会う物語である、と簡潔に要約したらどうだろうか。言葉の真実とは文献に拘ることなく、生の現実に立ち返る、と云う意味である。
 必要なことは言わねばならない。言わないまでも意思表示をすべきなのである、――国民は。