アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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悪について アリアドネ・アーカイブスより

悪について
2019-06-11 17:38:07
テーマ:文学と思想


 先日は、福岡大学の映画鑑賞会に出向いて、他律的ホロコーストの問題を提起されて、私の眠りつつある理性を、ひととき目覚めさせました。
 テレビの報道番組を見ると、高齢者ドライバーや引きこもりの問題ばかり。海外では天安門広場の整然としたイロニーに満ちた一党独裁政権下の様子と、香港のまるで風前の灯火のような百万人デモの映像に見入りました。内向きの日本と世界史の動向が余りにも釣り合わないのです。これが世界の歴史のある時期に同時に起きた出来事である、と云うことが慨嘆や驚き、疑問符を感じさせる志向的な出来事と云うよりも、拡散した白日夢、根拠のない夢でもあるかのように、とても謎めいた出来事のように回想されてくるのです。現代史の出来事なのに、過去形の文体が相応しいような伝聞のありかた、実に奇妙です。
 国内では、安倍政権の、やがて破綻するであろう年金問題や、麻生大臣の例によって国語力に不足した答弁などを見遣りながら、それでも徐々にじわじわと上昇する支持率の折れ線グラフの赤い軌跡を、ちょっと言葉が出ないほど奇妙で不思議な現象として眺めます――言葉を蔑ろにしたものたちの折れ線グラフを。

 私は先日、ホロコーストに関する映画を観ながら、悪の問題について少しだけ考えました。悪を、犯罪や背徳行為とは区別して考えることを提案したのです。むしろ悪の問題とは、非定常的、非日常的な犯罪や残虐な背徳行為などの反対側にある概念なのではないでしょうか。なぜなら悪にもまた固有の秩序があるからです。いいえ、悪には民主主義や人権思想などよりもある意味では特殊で、より強固にみえる秩序と安定が存在するのです。人々の悪への趣向は、必ずしも犯罪や背徳等に対する偏った好みのみではなく、人間としては自然な自己防衛への本能的発露、秩序や安定性への切ないほどの憧憬が基底に存在する、と考えられるからなのです。
 私は先の映画に関連して、五年ほど前に見たドイツの映画、『ハンナ・アーレント』についても当然思い出しておりました。アーレントの裁判傍聴記録、著書『イスラエルアイヒマン』は、左右両翼からイデオロギスト―的な批判を受けました。いわゆる「良心の思考停止」と「考えないと云う名の犯罪」で有名になった映画のことですが。いまはアーレントの映画と彼女の書いた『イスラエルアイヒマン』のことを蒸し返そうとは思いません。先日見た映画『否定と肯定』との関連だけで言えば、アイヒマンの職務が、第三帝国の、主として貨物輸送に関わる細密化された軌道ダイヤの複雑な組み換えと云う、尤も秩序保全と計画志向密度の高いルーチン化された業務の典型の如きものであったことは偶然ではなかった、と云うことを思い出していただきたかったのです。

 いままでにも少なからぬ数の批評家の方々が指摘するように、アイヒマンになり得る人間は少なからずいた、と云う点は間違いのないことでしょう。ただ多数いたアイヒマン候補者のほとんどはアイヒマンにはなり得なかった。アイヒマンになるためにはアーレントの言う判断停止や「考える習慣」を無くすだけでなく、もう一つの要素が必要だったと思われる。それは、世俗や日常性の中では場所を占めえない階級‐階層間‐境界域の人間が、ある固有の人種の殲滅と云う目論見を、非日常的で、非定常的な時間の中でだけ自分が人間であることを実感できる、アイヒマンについて言えば戦時下の非日常を日常として生きる、異常の中にもある日常性の発見、もっと進んでそういう常態化が一個の人間にとって実存の根拠となっている、そういうタイプの人間が一定数この地上に出現する、そう言う世界‐歴史的経験が必要だったのである。

 


 私も老いました。私の見通しはとても暗いのです。しかし単に思念したり思ったりすることを、迸る言葉にこめて語ることができるこの国の自由度と時間を、奇跡のように、人生の制限時間の間際に与えられたこのことの僥倖を、とても幸せに感じるのです。近くて遠い香港の出来事を憂慮しつつ。