アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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幸せの懐かしのレシピーーニュース シブ5ーー6-17日放送から アリアドネ・アーカイブスより

幸せの懐かしのレシピーーニュース シブ5ーー6-17日放送から
2019-06-17 21:49:43
テーマ:わたしの住んでいる町

六月半ばの梅雨に入りかけてはいるが、爽やかな風そよぐ夕暮れ、とは言っても一年で一番日が長いこの時期の五時代は未だ明るい。
フロアに寝そべってみる東京で見る首都のローカル番組、ーーおかしな表現ですがーーなんとなく見ているうちに主婦の好みそうな料理コーナーに移っていく。他局のチャンネルを半ば意識の裏で探りながらものぐさと惰性ゆえに体が動かせずに見るともなく見ているうちに、何時しか起き上がって私は居ずまいを正していた。
注文者の記憶だけを頼りに幻になりかけた思い出の懐かしの味を、聞き取りや試し作業を通して再現する、それは半ば過去の復元であり、想像力を通しての家族史の在りし日の時間の再現である。それは味覚を通しての半ば亡くなった人たちとの時間との再会であり、それは失われた過去性のみではなく限られた生を生きる者の立場から言えばこの世に残していく者たちへの狂おしいほどの祈願の味である。
考えてみれば味覚とは直接的な感触の味であると共に、統合的な行為でもある。視覚や聴覚が後天的な余地を残しているのに対して、変更の利かない一徹さ、原始性を秘めている。その一徹な原始性は認識や行為や行動を超えて有無を言わさぬ絶対性を帯びているという意味では、宗教に似ている。理知の介在を許さないのだ。行為や行動の恣意性を許さないのだ。もちろん、私のかかる思弁すら不要とする実存の輝きがあるのだ。
味覚と言う認識も行為や行動をも超えた、人それぞれが秘めた記憶のなかに揺曳させる幻を、徹底的に聴くと言う絶対的受動性の生の構えの中に受け取る! こういう仕事こそ人間の想像力の極限にあるものではないのか、顧みて自らの来し方を恥ずかしいと思わせる生き方の一例を見た気がした。

肝心のこの料理人の紹介を忘れていた。
番組の冒頭、とある団地の一室が彼女の仕事場であるとさりげなくナレーションがいる。過去にイタリアンの店を経営し都会の生活に惓んで店を畳んだ彼女。親友のとある思い出の味を再現して欲しいと言う願いに応えて造ったのが料理人としての機縁になったのだと言う。味覚を通して口の中に広がる過去の時間、失われたと思われていた過去の時間との再会、それは個人的な思い出を越えて澱のように蓄積した過去へ風穴を開ける行為でもあった。半ば終了しかかったかな、と思っていた自分の人生に、これほどにも人に喜んで貰える仕事がこの世に存在すると言う畏敬であり、自身史の発見でもあった。
味覚が持つある種の絶対性が何故時間を超えて久遠とも永遠とも言える至福へと人を導くのか、いまだ私は解けないでいる。