アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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アンチ-リア王ーー黄昏のロンドン-66 アリアドネ・アーカイブスより

アンチ-リア王ーー黄昏のロンドン-66
2019-06-23 00:48:19
テーマ:文学と思想

双親をみおくり、二人の娘を家から送り出す。前の方では見送る側として今生の惜別の言葉を述べ、後の方では言葉を述べ華詞を送られる。述べる言葉は意識の範疇にあるけれども、述べられた言葉は予想を超える。まるで言葉自身に自律性があるかのように、言葉の輝きの前にこちらを恥じ入らせる。

イングランドを旅して、トマス-ハーディの文学を読んで、今まで抱いていたイギリス的なイメージを修正しなければ、と思うようになりました。当然のことですが初歩的な画一的理解はいつかは卒業しなければならない、という意味ですね。
ハーディの文学の奥深さは、中世、近世、近代のイギリス的なイメージの背後にローマの占領時代の記憶を、更には古代の族長時代の記憶をそこはかとなく髣髴とさせる点です。トマス-
ハーディを際立たせるものは彼の文学の底に流れる歴史的時間の層の厚さ、イギリス文化の多層性と言うことではないかと思います。

実を言うとトマス-ハーディの、国民文学的とも言える視角を得ることで、リア王理解もまた味わい深いことになりました。古典の光を通すことで近代–現代文学を新たな解釈と意味を見出すと言う事は良くあることですが、その反対例と言う事もあるのですね。トマス-ハーディの文学には単に浪漫主義後期の文学というには留められない不思議な性格があるのですね。
シェイクスピアリア王が哀切なのはいつの世にもあり得る親子の不一致がありますが、いままでの理解は老いさらばえたリア王に焦点を合わせた解釈が主流でした。
もう一つの理解は三女のコーディリアに焦点を合わせるものです。親が子供から十全な理解を引き出せないように、子供もまた親の理解を十分に得たとは言いがたいのです。
リア王のもう一つのテーマは、親子の関係は互いが持つ愛の強度に正比例するのではない、と言う点です。親からは最も少しの愛しか貰えなかった子供こそ最も愛の偉大さを秘めていた、と言う点にこの戯曲のもう一つのテーマはあるのだと思います。
寧ろこう言い換えても良いでしょうか。愛を少なめに貰った子供は、愛の欠乏を通して愛の純粋化の経験に至るのではないのか。
建前としては親の愛は平等でなければならないというのは本当のことでしょう。しかし親は建前に対してしばしば誤りを犯すものであり、自然な流れに従うだけでなく親もまた成長をしなければならないと言うことがあるのです。
子供の側から見た親子の愛の哀切さについては昨今の児童虐待やいじめの報道に接する度に通時的背景として思う事です。
大人になった私たちは忘れてしまうのですが、子供の内面には驚くほどの成熟した人間観照と人間理解が存在すると言う点です。一方、子供は不自由で条件づけられた存在であり、非力さと人間理解の成熟度の不釣り合いが見ていてとても辛い気持ちにさせるのです。

小津の東京物語では、実の子よりも義理の娘の方が理解が行き届いている、と言うお話であり、シェイクスピアリア王の場合は果たして親もまた成長しなければならないと言う理りを理解したのでしょうか。

改めて思う事は、シェイクスピアの文学は人生よりも深いし、人間ドラマとしては実に広大である、と言う思いです。マルセル-プルースト風の言い方をすれば、私たちはシェイクスピアと言う光学レンズを用いて自分の人生を解読するのです。
たった一度の人生、シェイクスピアを読まずに終える、勿体ないと思いませんか。