アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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まこさま問題について――ヘンリー・ジェイムズ風に語る言語の四つの諸相ーー黄昏のロンドン(67) アリアドネ・アーカイブスより

まこさま問題について――ヘンリー・ジェイムズ風に語る言語の四つの諸相ーー黄昏のロンドン(67)
2019-06-25 12:26:49
テーマ:文学と思想

 まこさま問題の一連の報道を聴きながら、これによく似た話として思い出したのが、あろう事か、偉大なるヘンリー-ジェイムズの文学である。わが国ではかの漱石が一方でジェイン-オースティンの文学を近代小説の理想とも精華としても持ち上げながら、手に負えない難解な代物として深入りを避けたのが他方に於けるジェイムズのが文学なのであった。
 それでは、所謂まこさま問題とは、英米文学の泰斗に匹敵する、「偉大さ」や「難解さ」を兼ね備えた超文学的な出来事なのだろうか。と云うのも、ジェイムズは高貴な血筋の物語は描いたが、皇族や王族と云うものは彼と云えども手が届く範囲になかったのであるから。

 わが国の皇室で起きた前代未聞とも言うべき出来事が何に似ているかと言えば「鳩の翼」や「黄金の盃」などが典型的にはそうであろうし、初期の「ワシントン-スクエア」では、当該のヒロインが相手の意図を見抜いて、人間存在の本質を見果てた結果、人間存在に対する根本的な疑い、いわゆる人間不信に陥り、世間との接触も半ば絶って生涯独身をつら抜いた、と言うものである。まこささま問題がこの段階で安全飛行裡で終わるためにはわが国の伝統的文化土壌に、ニューイングランド気質というかこれの等価物、あるは聖婚の強固な観念、敬虔なる宗教的信条が前提されていなければならなかっただろう。
 かかる意味に於いては「鳩の翼」が一番似ていると言わなければならないだろう。鳩の翼のヒロインは死に至る病の無常迅速の過程の最中にあり、死に場所を定め、生涯を象徴的に総括する死を求めていた。彼女は下品な二人が近づいてきたときも、何から何までも事情を十分に見抜いた上で、たとえそれが人間存在の下劣さや下品さに起因するものであろうとも、――彼女の独特のキャラクターであるこの世の実存から解放されたものの天上的なかるみ、つまり許しと哀れみの感情の中で全てを許す、と言う境地に達していた。他方「黄金の盃」では、ヒロインは自身の無防備さを重々理解したうえで悪との共存をあえてヒロインは選択する、というものである。「ある貴婦人の肖像」では、何の為にこのような悪との共存を図るかと言えば、非力であろうとも何かを守りきらなければならない、と言う自覚に達したからである。
ヘンリー-ジェイムズの文学は近代に於ける遅れてきた殉教者の文学、と言う面がある。

以上を踏まえつつ、ここから当該の問題について言えば、言葉に関わる人間として、あるいは言葉を発することで人は人間になる!と云う仮定の下で言うならば、凡そ四つのことが言える,。

第一は憲法に保証する基本的人権の問題として、「ロミオとジュリエット」のように制度や慣習に抵抗し対峙する純然たる純愛の物語として、あるいは容喙を許さない純然たるプライベートの問題として考える。(観念の物象化)
第二は当該項目である金銭の 貸借りや贈与等の問題について経営学ならびに法的な次元でのザッハリッヒな解決を図るべく考える。(言語の制度的物象化)
第三は法的次元の手前にある社会的慣習や倫理、社会的通念や道義の問題として「人間性」やコモンセンスの問題を持ち出して世論に訴える(社会慣習や習慣のの物象化)
第四は第一や第二のプライベートの問題や法が規定する問題にみではなく、更には第三の考え方が典型的に表明しているような----社会や伝統、慣習的通念が要請するある種の規範力――「人間性」とも違って、本来言葉自身が持つ権威に於いて言語自らをして語らしめること。言い換えれば言葉自身が語る言語の自然に倣うこと。(言葉の物象化の手前で絶えず引き戻される生成過程としての言語)

第四の論理は哲学的分かり難いかもしれないが、第一には愛とは純然たるプライベートな出来事を超える領域があるし、第二や第三の、法的な解決や社会的慣習に訴える方法は、元々人間の信頼や親和性に関わる問題は、プライベートな言語でも社会的な言語でも語り得ない事柄だからである。

とはいえ言語は物象化の過程を経ずには影響力を持ち得ない。ここに難しさがあるのも事実ですが。

まこさま問題のほうに帰る。
婚約期間中の金銭感覚は、たとえ当時は見返りを求めないと当該者同士の意思が明確に示されていても、利害関係が変化した段階で清算すべきものと考える、のが言葉の自然である。言葉自身が自らが持つ権威、言葉の自然力とは、己がどう考えるかとか他者や社会的慣習や制度が如何に他律的に語るかと云う二元的な平面にはなく、言葉自身が自らの権威に於いて自ずからを開陳する超言語的な出来事なのである。私たちは絶対的受容性の立場に身を置いて、言葉の自然力に倣って逆らわず耳を傾けて聴くとき、この出来事はどのように妙なる音楽となり聴こえてくるものであるのか、を納得するのである。

 私はかかる言語の語用を、公論ならびに言語の公共的使用と名付けたい。


公論すなわち言語の公共性とは、個人的信条や心情の開陳でもなければ、法制や社会的慣習が要請するイデオロギーに加担することでも無いのです。言葉が自ずからに語ることを、ひたすらに絶対的受容性の立場に立って聴くこと、それは実存の在り方としては、一歩退いて謙りつつ聴くこと、すなわちunderstandなのです。

 人は時に愚かでなければならない。愚かさを身に受けて演じなければならない局面が存在する。まこさま問題に解決があるとするならば、人間存在の愚劣さや下品さを見極めたうえで、「鳩の翼」のヒロインのように全てを許すことだろう。
 しかし、人は簡単に許す、と云うけれども、このような高貴さに直面したものはその後を果たして生きることだできるのだろうか。「鳩の翼」の男女は目的は果たしてもその後の人生行路においては分岐せざるをえなかったのである。