アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ブレヒトの映画『三文オペラ』――30年代の歴史の光と影 アリアドネ・アーカイブスより

ブレヒトの映画『三文オペラ』――30年代の歴史の光と影
2019-07-05 19:23:16
テーマ:映画と演劇

 

 


 観終わった時はそうでなくとも、余韻を反芻するうちに、ーー彼の映像作品を反芻するうちに、偉大な作品に出会ったのだと云う実感が込みあげてくる。ブレヒトの有名な『三文オペラ』はそう言う映画である。

 オペラの分野としてはジングシュピール(子供歌劇)とされている。それ以前オペラを語ろうとするならばオペラ -セリアとオペラ-ブッファの区別があった。しかしこんな音楽史上の区別や分類などはどうでもよい。お金が全てである、とまでは言わないにしても、この映画にあるように、お金があれば自然と礼節も叶おうと云うものである。最後には体制から疎外されていた登場人物たち、敵味方に分かれた者たちの間にも金銭を通じての大団円が与えられる。映画の終わりはこうである。お金があれば、体制派も反体制派も、ルンペンも、エタ・非人も幸せになる。目出度し!――ナンセンス劇の真骨頂!ここまではジングシュピールの常套に従っている、と云うべきか。子供騙しなのである。しかし子供騙しのオペラとしてしか語れない事もあるのではないか。

 この劇の粗筋を書くよりも、主要な登場人物たちについて紹介しておく方が良いだろう。
 メッキ―: 暗黒街のボス。女にモテるが、貧民街の乞食の元締めであるピーチャムの娘ポリーを花嫁としたことから、利害の対立を生む。
 つまり、裏社会の二大勢力メッキ―とピーチャムとは社会の影の世界を生きる実力者同士でありながら、その方法において、つまり合法と非合法と云う在り方が、必ずしもあらゆる場合に利害の一致を生むとは限らない、と云うわけである。
 ピーチャム: 社会の同情心を巧みに引き出すことで、乞食ビジネス、同情ビジネスを牛耳て富を築こうとする。
 ポリー: そのひとり娘。ウェディングを夢みる可憐な少女から遣りての女実業家(銀行頭取)への変貌が見ものである。
 タイガー・ブラウン: ロンドン警視総監。それは表の顔で裏ではメッキ―の暗黒社会と繋がっている。反社会的勢力が実は権力と繋がっている。表と裏社会の交互的情報交換と云う危うい均衡に存在理由の由縁があり、彼の現存在もそこにおいてこそ成り立っている。
 ブレヒトの描き方はこの描出力が足りないが、彼の境界的、周辺的生き方が定常的なもの、常態的な生き方だと信ずるところに悪の起源が暗示されている。つまり本来は境界的・周辺的な在り方を、定常的なもの、常態的なもの、つまり日常性に比肩するものとして永遠なるものと錯覚することにおいて、ある種の狂気が生まれる。(その「狂気」を生きたのがヒトラーであったのだが。)
 奇妙なことに、権力と裏社会の権力は通時的に共時的に、あらゆる場合に利害の一致をみる。これは権力と云うものが本来後ろ暗い存在であるからだ。ナチズムこそ表と裏の権力構造が通底しあうと云う事例の象徴的な存在のなのだ。しかもナチズムがクーデターと云うよりも(非常的な手段を用いてではなく)、民主主義の多数派工作と云う「正当な」手法の延長線上に、一応は議会制民主主義における選挙制度の仕組みを利用して成立した、「合法的権力」であることを思い出してほしいものである。

 登場人物は多いけれども、とりあえずこの四人を押さえておけばよい。
 メッキ―の盗みの論理は、資本主義社会自体が労働者からの搾取で成り立つというマルクスの言説をそのまま流用するなら、盗みと云う行為だけが断罪される謂れはない。つまりこの男を固有の男たらしめているのは、目には目を、歯には歯を、悪には悪を、資本主義には資本主義の論理を突き付けて、エゴイズムの論理を徹底して何が悪かろうと居直ってみせることに尽きる。つまり資本主義の論理には論理を、明晰であると云うことが彼が並みの悪党やゴロツキから区別する。
 ピーチャムはそうではなく、その手法においてどこまでも体制内存在の人である。資本主義とは本当はエゴイズムと盗人の論理であるから、反面補償作用として隣人への愛や弱者への同情心を推奨する、あるいはせざるを得ない、と云うのは皮肉である。ならば資本主義とは何でもそれを商売にできるのだから人々の高潔な同情心や博愛心であろうともそれを金に換算して何が悪かろう、と云うものである。
 両者は共に資本主義の裏社会に生きているとはいえ本来は、合法と非合法と云う棲み分けの論理があったはずである。それが崩れるのは、ピーチャムの後継者たる一人娘ポリーとメッキ―が一夜にしてくっつく、つまりハプニングじみた結婚式を挙げてしまう、と云う点にある。かくも安易に、簡単に後継者を横取りされては乞食ビジネスが成り立たなくなってしまうからである。
 そこでピーチャムはブラウン・タイガーの裏情報をネタに権力にゆすりを掛ける。つまり女王陛下のパレードが予定されている国民的祝日に乞食のパレードをぶっつけて、治安維持を担当する警視総監の面子を潰そうと云うのである。
 メッキ―はそれとみて、ブラウンが今回は自分を庇いきれないとみて逃亡するが、うら若き娘ポリーに組織の継承を委託する。若い娘の戸惑いには関わりなく彼の委託は絶対的な感じを持っている。
 うら若き娘ポリーのその後の変貌こそ、ブレヒトオペラの真骨頂である。父親譲りの乞食ビジネスをテーゼとすれば、メッキ―の反体制ビジネスはこの場合アンチテーゼとなる。ならば、合法的行為を徹底して、裏社会の人間が裏社会で稼いだ金で銀行を手に入れたらなおよいであろう。どのみち盗みも同情ビジネスも金貸しも本質は同じなのだからと達観してしまえばよいのである。つまり彼女は一夜にして銀行の頭取になって観客の前に登場する。裏社会の女王が資本主義と云う盗みの洗練された論理を標榜する社会の女王に横滑りした、と考えればよいのである。細かいことや論理の飛躍に拘らず、これはジングシュピール(子供歌劇)だと思えばよいのである。

 ピーチャムは、娘の成功をまだ知らない。それで乞食の大動員をかけ、国家的行事である祝日の日の女王陛下のパレードにプラカードを持った乞食のデモをぶつけようと檄を飛ばす。しかしこの情報は直ぐにもたらされることになり、すでにメッキ―は脱出しているという知らせを得たことと、国民的祝日をぶち壊すという発想そのものが彼の乞食ビジネスの存続のためには壊滅的な結果をもたらすかもしれないと云う予感から一転して乞食のデモを阻止する立場に追い詰められるのだが、デモ隊は彼の制止とはかかわりなくまるで自然現象のように、それ自身に自律の論理が備わっているかのように、洪水となって広場や通りを埋め尽くす。

 こうして国家的祝日は大混乱となる。女王陛下の馬車は彼女の引きつった表情を写して大混乱のなかに撤退していく。警備の面目を潰されたブラウンは体制から離脱する、と云う選択肢に従う。体制派が駄目なら反体制の側に行くだけなのである。表社会が駄目なら裏社会に同情の手を求める?今までも彼はこうして器用に生きてきたのである。同様にピーチャムも自らの乞食王国の統率力を失って娘のポリーがいるらしいと聴いた銀行に難を逃れる。ところがそこには逃亡中の保護を求めてメッキ―もいたというわけである。
 こうして奇妙にも不思議なことに主要な登場人物たちが全て一堂に会し、彼らが個々に成した成功も失敗も一旦は棚上げして、女神の如きポリーの寛容さのなかで和解に至る。お好みの言い方をすれば、合法と非合法の弁証法的関係はここに「止揚」され、統一をみたのである。
 以上が粗筋である。

 さてこの映画の基調は、この世とは悪賢くなければ生きれないのだとすれば、それを逆手にとって生きるほかはない、それが盗みや詐欺と云う反社会的な行為であろうとも、と云うものである。それを象徴する人物としてヒーローのメッキ―は設定されていたはずである。
 ピーチャムの論理が彼と異なるのは、人の利害を超えた同情心とか博愛の心を逆手にとって、売れるものはここから最大限の利益を生み出そうと云うものである。これも立派な資本の論理でより徹底された姿がある。メッキ―の非合法に対する合法性の生き方だが、メッキ―の生き方が行動としては反社会的で非合法の活動であろうとも心は純粋なものを一部見失っていないのに対して、ピーチャムは手段や行動こそ合法的行動の範囲内にあるのだが、心は根本まで腐り切っている、反倫理的、反社会的の倫理観の持ち主である、と云う違いがあるに過ぎない。しかし元々資本主義とはその種の人類が表通りを歩ける社会ではなかったのか。
 ポリーの論理は、盗人も資本家も同一の価値だとすれば、自らが資本家になってしまえばなおよい、と云う単純性の論理、ある種突き抜けた超越の論理である。ここに資本主義と盗人の論理の価値転倒は完成する。
 ところであらゆる価値転倒の社会とは、――この映画が描いているのは革命の前夜であると云うことなのだ。つまり革命の前夜に於いては可能性と絶望が同居し、白黒も不分明のママ、誰が敵で誰が味方であるのかすら混沌としてくる。

 この映画に出てくる人物に一人として共感に価する人物はいない。早く言えば全員がゴロツキなのである。ゴロツキに革命ができるのか、と云うのがこの映画の秘められた問なのである。ブレヒトの論理の底にあるのは、革命の主役はプロレタリアートであると云う正統マルクス主義なりロシアマルクス主義の論理が前提としてある。ブレヒトにはそうして成し遂げられたロシアマルクス主義の成果に対する疑念があって、正統なプロレタリアートだけでなく、ルンペンプロレタリアート、盗人、虐げられたものを食い物にする偽善者たち、表社会と裏社会を往き来する変節者たちであっても、革命に利用できるものは何でも利用しよう!と云うイロニーがある。つまり前も言ったが、ゴロツキどもでも革命ができるのではないのか、と云う破天荒の空想である。
 だだこの空想をイロニーとして愉しむためには、ロシアマルクス主義の相半ばする功罪と云う歴史のイロニーを踏まえていなければならない。

 ブレヒトの名高い演劇理論にある異化作用とは、この映画が描いたような、観客が誰一人共感もできない存在の影絵のような人物だけをもってして、ドラマを組み立ててみることは可能か、と云うことではなかったろうか。あるいはもはや影絵のような無機的な映像手法によってでしかヒトラー体制下に向かう三十年代ドイツの現実は描けないのではないのか、と云う思いがあったのではなかろうか。
 第二点は、異化とは、作者の思想やメッセージとはかかわりのない、演劇空間が独自に生み出す多元的なポリフォニーの関係である。つまり観客の感情移入と云う手法が手の届かない、歴史の無機的な多面性を多面的であるがままに描こうと云う試みでもある。その点、演劇も革命もポリフォニーの関係と云う意味では似ている。
 その結果、これは個々の映画論を超えるの問題であるのだが、ブレヒトのかかる歴史の多元的解釈は革命を生み出すのに貢献したのか、と云う人類最後の問いを生み出すことが可能になったのだが。

 さてこの映画が構想されつつあった30年代、ドイツのマルクス主義者たちの間では表現主義論争と云うものが提起されていた。表現主義論争とはアヴァンギャルドの評価に託けて、革命の実行主体はプロレタリアートだけで良いのか、と云う問題提起である。そうした当時の文学界を覆いつつあった政治と文学を巡る苛烈な論争を念頭に置くとこの映画の前提が見えてくる、それを踏まえた、ブレヒトなりの解釈であったことが分かる。

 この映画が今日においても新鮮であるのは、ブレヒトなりの革命論はそれとして尊重しながらも、彼自身の思想やメッセージを超えて革命前夜の30年代の多面的不可知性を映像そのものとして描いた、と云う点なのではなかろうか。ブレヒトの好むと好まざるとに関わらず彼の主観的な意図を超えてこの映画は1930年代の現実を描いた、と云える。
 『三文オペラ』とは、まさにベルトルト・ブレヒトと云う、革命に拘り、マルク主主義に礼節を尽くし、皮肉なことに戦後東ドイツのなかで生涯を終える、1931年の「いま」と「ここ」を生きた、一人の天才の予感に満ちた仕事だったのではなかろうか。

 さて最後に筆を措くにあたり、私にある感慨が去来する。
 革命が失敗したとかそうでなかったとかは、どうでもよいことなのである。むしろ革命に最後の希望を繋いだらしいベルトルト・ブレヒトと云う人物が私には哀れでならなかった。
 共産主義も資本主義も結果としてはヒトラーを阻止できなかった。むしろヒトラーとは価値の転倒と混沌のなかから、ブレヒトが愛し愛情を籠めて描いた「ゴロツキども」の間から立ち現れて来たのではないのか、と云うのが偽らざる私の最後の疑念なのである。つまりプロレタリアートではなく、この映画に描かれた盗人、偽善者、体制階級間の渡りもの、二枚舌の変節者ども、裏社会と結びついた権力と資本家たちの癒着構造の中からアドルフは生まれたのではなかったか。

 この映画を今日見ることの意義は、三十年代のように観ることは許されない。ブレヒトやその他の善意の者たちのあらゆる言説や思想を乗り越えて現れて来た蒼ざめた歴史の影、それを阻止できなかったばかりでなく、あろうことかそこに革命の可能性すら夢を見ると云う愚かさを私たちはかって発揮したのである。国家社会主義労働者党や大東亜共栄圏や大アジア主義と云う!

 ――没後六十三年、自戒の意味を籠めて、ベルトルト・ブレヒトにこの一文を奉げる!