アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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青木次生『ヘンリー・ジェイムズ』ーー黄昏のロンドン(69) アリアドネ・アーカイブスより

青木次生『ヘンリー・ジェイムズ』ーー黄昏のロンドン(69)
2019-07-09 09:50:50
テーマ:文学と思想

 

 

 この本は通常は黒子に徹していたかにみえる翻訳と云う生業を旨とする学者さんが、ある程度功成り名を遂げて、と云うか、学者としても翻訳家としても学会でそれなりの評価を受けて、最後に自分の人生を振り返ってみたときに、自分のライフワークと云うのもおこがましいのだが、翻訳と云う作業に限定してみて考えてみた場合に、それに要した時間もさりながら、余技であったとはとても言えない支払った労力の膨大さを顧みみて、一言、最後に言ってみたい、黒子であるならそれなりの主張を、年功に鑑みて、或いは許されるのではあるまいか、本音に近いことを語ってみても、と云う本である。

 語られる、対象は、難解と云うか曖昧模糊とした文体を操るかの巨匠ヘンリー・ジェイムズである。
 この本の特色は、そうした黒子に徹する筈であった英文学者が語る翻訳冥利と苦労話、さらには同一本の多種異種日本語訳の比較検討を通じて、著者の歯に衣着せぬ思いが綴られていて、結構面白い。面白いと云うのは、これは著者が語っている事ではなく私が文意に敢えて逆らって感じた事なので青木氏の怒りを買うことになるかもしれないが、誤訳や意訳の問題以前に、翻訳者が原作を正しく理解していなくても、結果としては意外とそれなりに読める翻訳本は出来上がる、と云う神秘と云うか仕組みだろう。例えかりに誤訳であったにしても、背後には優れた原作というものがあるわけだから、水準を嵩上げし、自浄作用というか原案の水準に自然に戻して、それなりの翻訳本が結果として出来上がる、と云うことだろうか。或いは私は、言語もできないくせに大変失礼な事を言おうとしているのかもしれない。(とは言え、従来においてやや匿名化されてきたきらいがある翻訳者が、別に解説なり論文を書いて自分なりの読みを開示することは大事なことである。ただ文学界と読書界の現状が、そんな手間暇を掛けることのできる層が消滅しかかっている、と云う現状は如何ともしがたいのだが。)

 こういう翻訳者により異種多種翻訳の比較検討は、手前みそになりがちなことから、あるいはアカデミズムのテリトリーや棲み分けの論理により、やや禁忌されてきたきらいがあるが、昨今のメディアの発達により第三者評価が容易にできる昨今の事情では、たしかに青木氏の言うように、暮らの手帳のようなユーザー向けに徹した情報開示は必要なことだろう。ところでこの本の出版は1998年とあるから、先見の明があった、というべきか。

 以上をまえがきにして、本題のヘンリー・ジェイムズに入ろう。
 この本は、難解だと言われるジェイムズ文学の読み方の、初歩的な教本書、と云う体裁をとっている。ジェイムズの名前は我が国でも漱石の昔から有名なのであるが、にもかかわらず、ジェイムズの文学を読む人は少ない、未だ知られざる巨匠である、と云う思いが著者にはあるのだろう。
 本書の特徴を示しているのは、『ねじの回転』や『聖なる泉』を解読した部分である。特に後者に於いては、ロンドンのパディントン駅で偶然に遭遇した古い男女の知り合いのそれぞれに起きた若返りについて、語り手が想う妄想である。その妄想とは、一組の男女のペアがあったとして、肉体的な若さにおいて、精神的な若さにおいて、一方が多様に生気を吸い取られて、一方が若返り他方が老いると云うのはあり得ることに違いない、と云う確信である。現代の形を変えた吸血鬼伝説の改訂版とでも云うべきか。あるいは新興宗教じみた言説か。

 『聖なる泉』については、ヘンリー・ジェイムズによるジェイムズ文学のパロディとも云われるように、ジェイムズ文学の技巧や技法が典型的に現れている、と云う言い方というか言説においては、さしあたりヘンリーの文学を理解したい、と云う意味では手ごろかも知れない。
 私も過去この本について書いたことはある。その評価は今も変わらない、――つまり、つまらない本である、と云う評価は今も変わらない。ヘンリーは自分の文学が思わしい評価を得ないのでうっぷん晴らしをして楽しんでいるのである。それ以上とは思えない。つまりこの本は、通常の入門書としてではなく、ジェイムズの文学を職業として考えている研究者たちにとっての入門書とでも云うべきもので、本来が、マイナーな部類に該当すべきものなのである。だから青木氏の本も通常の読書人を対象としたというよりも、研究者や所謂マニアと呼ばれる方々を念頭に置いた本であることが分かる。この本を読もうとする場合は、青木氏のそういう前提を念頭に置いて読む必要がある。

 正直、私は青木氏の本を読んで、実のところ自分のヘンリー読みにはかなり読み落としがあったな、と云うことを教えられた。ある程度読み込んだつもりではいても、専門家の方々に比べれば正確な読みにはほど遠いものがあったな、と思った。
 しかし先の『聖なる泉』や『ねじの回転』などを通じて青木氏が展開する視点論、――つまりヘンリーの文学には三つのレベルの視点が内蔵されており、それは作者の視点、語り手の視点、途上人物たち各々の視点である、と云うものなのである。小説読解の場合の三つの視点の指摘はそれほど新鮮な出来事ではないが、それが特異であるのは青木氏の言う通り、ヘンリーの文学に於いてはそれらのレベルの異なった視点が様々に組み合わされて変幻自在、複雑怪奇とも云うべき言語空間を生み出した!と云うことだろうか。それがヘンリー・ジェイムズの難解だと言われる所以でもあり、文体が与える曖昧模糊とした印象の根にあるもののことだろうと思う。

 青木氏の読みは、こうした推理小説じみた、精緻な、と云うか、いっけん重箱の隅をほじくるような論理と推理の組み立てを基本としている。これから一生の課題としてヘンリー・ジェイムズの文学を志したいと云う向きには良いかもしれないが、普通の読者では、お付き合いするのが面倒くさい。
 確かに、「正確に」と云うか「論理科学的に」読めば、青木氏の読みは誤りではないだろう。読書量と教養の差から、私如きが何を言えるものでもない、と云う感じがする。
 しかし、だからと云って、精緻な青木氏の読みの通りのものであったとして、それがヘンリー・ジェイムズの文学が偉大であったかと云う結論には何処まで行っても届かない、と云う気がするのである。光学機械で、ジェイムズの朦朧態を解きほぐし、元素がどうで組成がどういう組み合わせになっているかの学術論文を書いても、ヘンリーの文学の偉大さには届かないのである。

 釈迦に説法!青木氏には重々分かっていることだが、ヘンリー・ジェイムズの文学の魅力とは、青木氏のような精緻な読みの彼方に出てくる、霧散しえない形而上学の霧の向こう側にある。
 うまく言えないがこう云うことなのである、――ヘンリーの小説の枠組みはシンプルである。男女関係があって、金が絡んで、お決まりの定めになる、身も蓋もないお話、と云えばそれまでなのだが、身も蓋もない話の凡庸さから、かくも精緻でミステリアスな物語を紡ぐと云うことにおいてこそ、ヘンリーの文学の奥行きと云うものが生じるのである。もし、青木氏の解読した科学的で実証的な読みの通りのドラマであったとしたならば、女性週刊誌と変わらないではないか、と云う気がする。言い換えれば女性週刊誌なみの凡庸な記事であっても、ヘンリーの手にかかれば、オカルトじみた、あるいは中世の聖杯伝説を彷彿とさせるような、人類史的規模の雄渾な物語が紡がれる、と云うべきか。

 ヘンリーの文学の魅力の特徴を一言で言えばこう云うことではないかと思う。
 私たちが日ごろ現実だと信じている日常的な事実の組み合わせの中から、「真実」が姿を現してくるとき、それは「単純化の原理」に従うのではなかろうか、と。ここに単純化の原理とは、古来言われてきた、真理とは単純で単層のものであった、と云う伝説である。
 私たちの真実を求めるドラマは、深まりゆくその紆余曲折の過程において、視界が閉ざされた不可解な神秘に遭遇する。前進も後退も不可能な曖昧模糊とした状況の中で出会うものは全て魑魅魍魎の世界と化す。それで私たちは真実とは複雑怪奇で敵意を抱いたミステリアスなものであると云う結論をここから持ち帰ろうとするのだが、実際には、事が成就する時と云うものは、人間関係と云うものは、ある種の類型に近づくのである。もう一人の英文学の巨匠ジェイムズ・ジョイスが神話的原型と云う形式で構想したように!
 確かに現実は複雑かも知れない。しかし、真実はシンプルなのである。私たちの人生の終わりに待ち構えている死がシンプルであるように!ヘンリー・ジェイムズの文学はこのことを教えている。