アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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奥山礼子『ヴァージニア・ウルフ再読』――芸術・文化・社会からのアプローチーー黄昏のロンドン(70 アリアドネ・アーカイブスより

奥山礼子『ヴァージニア・ウルフ再読』――芸術・文化・社会からのアプローチーー黄昏のロンドン(70
2019-07-12 21:05:40
テーマ:文学と思想

 

 


 さして浩瀚な書物の風でも分厚くもなく、薄くもないハードカバーの普通の製本、しかしながら奥山の本は私を唸らせました。
 一読して、私はヴァージニア・ウルフの何も分かっていないのだな、と云う思いを幾度か反芻する自分を見いだしておりました。

 全体は四部で、時間的な順序は無視して、『灯台へ』、『波』、『ダロウェイ夫人』、とその他の部分に分けられている。勿論、論点は最初の三部に出尽くしている。

 簡単に言うとこう云うことである。
 奥山の『灯台へ』の読みが明らかにしているのは、散文で書かれた室内楽的な抒情詩への奇跡的な驚異の接近としか読んでいなかった私の読みに対して、戦間期の立派な社会小説であることを読み込んでいることですね。この点は『ダロウェイ夫人』などにおいてより顕著な傾向になるのですが、ウルフが高踏的な意識の流れに属する秘匿された孤高の作家、等と云うものではなく、それなりに社会と格闘した作家であった、と云う点ですね。
 第二に、ウルフの小説美学を、G・E・ムーアの哲学の内容にまで踏み込んで解読したことです。少なくとも私は当時のイギリス現代哲学との関連を論じたものとして、こういう話題の建て方を初めて聴いたような気がいたしました。勿論、私の素人ゆえの独学と浅学の故でありましょうけれども。
 第三に主要な主人公である夫人の死が、『ダロウェイ夫人』における夫人とセプティマスとの間に生じたように、一人の個人の死が契機となって、転生の物語が紡がれていたことですね。この小説はリリー・ブリスコウと云う女流画家の絵画論に託して語った、芸術家小説としても読めると云うのです。
 こんな風に読める、脱帽いたしました。

 おそらく、『ダロウェイ夫人』は、今以上に『灯台へ』や『波』、その他を読む場合に重要な作品になるのではないのか。特にセプティマスに集約された社会批評と狂気の関係は、ヴァージニアを論じる場合は不可欠なこととなるだろう。彼女の狂気の経験が生かされている、自伝的な水準にまで。そこまでは読み取れませんでした。

 『波』はスーザンとロウダの二人を論じている。六人の登場人物のなかで、唯一、揺らぎのない人物、地母神のように大地に根差した女性と思われていたスーザンに、そうした在り方を超えて女性解放の視点を読み込もうとする奥山のフェミニズムは共感できる。
 ロウダは、周知のように最後の方で自死が語られるヴァージニアに類似の経歴を持つ人物だが、自身のストーリーをなぞるかのようなウルフの道行きがとても悲しい。あるいは、ロウダとウルフの道行きのなかに、死と再生の物語が目に見えない形で彫り込まれているのかもしれない。解読もまだまだ、と云うことなのであろうか。
 『ダロウェイ夫人』を論じた部分は、通常とは異なって、端役的な人物、ヒュー・ウイットブレッドやウィリアム・ブラッドショーなどを、イングリッシュネスとスノッブと云う観点から論じている。
 つまりこれらの人物は、社会の表通りを歩いた人物たちの典型で、誰がセプティマスを死に追いやったのかと云う観点から、義憤にもにたウルフの嘆きを聴きとることができる。言い換えれば、ウルフを狂気と死へと追いやったのもこうした者たちだったのである。こうした有史以来の築き上げられた男社会の論類だったのである。
 少なくともウルフは『ダロウェイ夫人』に始まる三部作において、死闘とも呼べる水準の格闘を演じたことは間違いないだろう。
 上流階級出身で交際範囲をオックスブリッジ出身者に限定した、麗しき社交界と英国風アカデミズムの麗人との感を与えかねなかったウルフが、自らの死を賭してまでも奮戦した戦士としての肖像は私には新鮮であった。
 奥山さん、ありがとうございます。もう一度ヴァージニア・ウルフを読み直したい気分になりました。