アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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死を死んで、死を生きる――平成の最末年を生きて アリアドネ・アーカイブスより

死を死んで、死を生きる――平成の最末年を生きて
2018-05-07 13:07:34
テーマ:文学と思想


 もともと政治などにはこの世の戯言として無関心だった私が、政治や政局の動向に目を配る様になったのは、2015年9月の安保関係諸法案をめぐる攻防戦の可否が決定する最終段階に於いてでした。この段階では、すでに前哨戦に於いて大勢は決まり、既成事実化した「事件」の追認に終わりそうな気配のなかで、冷淡で皮肉な嘲笑とまでは言われなくても、意思表示することの無意味さ、非力さに対する弁明すらかえって求められかねない、そんな段階にありました(日本は政治だけにかぎらず意思の自然な発露すら弁解が必要な社会になってしまいました)。つまり、戦後の総決算とも云える大きな出来事の終結としては、流れに掉さしプロテストすることの意味が大衆の大意(思潮)からはかくも隔てられ、民意と云うものがあるとするならば――民意と良心が一致しないと云う――大きな隔たりに遮断されてあったのです。意思表示するならもっと早い段階ですべきだった、と云うことはむかし語りのように誰しもが言っていたことなのでした。

 とは言え、政治的無関心層に属していた私は、ちょどその頃たまたま東京に滞在しており、政治の泥臭さとは無縁の目白の高級旅館に一泊し、つでに途中下車した霞が関で安保反対の意思表意の行動を目撃しました。私には正直言いまして、政治のことは分からなかったのです。ただ国会を取り囲んだ彼らの一途な姿を見て、観ぬふりはできないなと思って輪に加わりました。

 ところがこの、ほんのついでの思い付きが、三泊四日に渡る議事堂控室に寝起きしての、国会傍聴を見守ると云う、見守ることが二院制議会民主主義の理解と、見守ることが国民としての義務、と感じるまでの、とある永田町滞在見聞録へと変化したのです。
 この時の心情は、非力なゆえに、非力なものとして、その非力さを共有したい、ともに最終旅程を歩き尽くしてみたい、虚無が見えるのであればそのところまで!と云うようなことでした。と云うのも、明確な政治的な主張や理解があった訳でもなく、その最終段階ですごろくの上りが対象の側にあり、主導権が対象の側にある以上、変更が不可能なものと感じられるものである以上、敗北を共有することにある種の意義を見出す、と云う道を選択するという選択肢が残されていたのです。要はこのネガティーヴで退色的な素材に、せいぜい、どのようにして個性的な意義を与えることができるかだ、と云うことではなかったかと思います。
 敗北主義と云われればその通りなのですが、感傷に霞むことなく、敗北の道筋を一歩一歩感性のレベルで受け止めながら、抗議活動に参加した最年長の層に属するものとして、若者の頃そうであったのとは違う敗れ方をしたい、そのように感じておりました。つまり、感傷と情緒を遠く離れて、無傷のまま敗れたい、と云う傲慢な気持ちが一方にあったのです。

 このようなわけでしたから、この日この時の経験があって数十日が経過してからも、私の私生活にはさしたる変化があったようには見えませんでした。議事堂の周りに集ったあの日あの時のあの夜のあの若者たちは敗北をどのように受け止めどのように敗北を抱きしめて、今日明日を生き延びているのだろうかなどと、徒に感傷的に考えたりはしませんでした。感傷的にあることはあっても、この齢ともなれば、感情と論理は区別されてある生き方が、亀の甲羅のように習慣と知的慣習と云う形で身体の外部にへばりついてしまったようなのですから。
 ただ、あのとき、一緒に殿を行く敗残の隊列のなかに一個の実存としてある、と云うことがとても大事なことだと感じていたのです。

 老いに鞭打つ、体は細いのですが、思考の強靭さにはある程度の自信があり、この程度の出来事などその後の多忙な日常のなかでは何ほどのこともないと思っていたのですが、また例によって、のんびりと、自分だけの余暇を満喫しようと思い絶ってイタリアを旅しました。
 イタリアの明るい風光に目醒まされるように、セオリー通りに、癒された自我が蘇る!と思いきや、そ時とはっきりと私にはわかったのです。大したことではないけれども、確実に私の内部で死んだものがある、と。
 その時、数は多くないのですが肉親などの死を通じて身に付いた、看取る、追悼すると云う行為が無意識のゼンマイが小さく音を立てて時を刻みつつあるようにかすかながら静寂のなかに際だつ動きを見せ始めていたのです。

 イタリアの風光が美しかったのは、死に逝く眼の時間性と云う内観を通してで見たからなのでした。どんな細やかなものであったにせよ、死に逝くものを看取る眼差しを過去に生きたと云うことは、考え想像するよりも大きなことで、それはボディーフローのようにじわじわと効いてきて、もはや昔のようには生きられないことを意味していました。たかが外在的な政治的の死も立派な実存の一個の死だった、とは言えたのです。

 旅立ちの前後の日程を入れても二週間に満たないほどの旅であったのに、日本に帰って来た時は、確実にかっての自分のある部分が死んでいることを確認しないわけにはいきませんでした。
 実際には、ひとは何度も自分自身の死に立ち会うのです。自分の内面の死に立ち会うだけでなく、他者の看取りをも通じて、その他者の死を生き、その死を死に、その死を生き直す、死を生きつくす過程で、反転して、自らの死を生き直すのです。死を死んで、死を生き直す、死を生きるとは、死が死に切るまでの無限の過程なのです。この無限の過程とは、古代の日本人が殯と名付けたものと同じものなのです。

そして最後は自らの死を生き死ぬのです。


 何かを企てる、ひとつのことを除けば、――死を演じ切ると云う最後の大芝居を除けば――この年齢になれば次第に厳しく、相当厳しくなりました。大きな仕事は、やはり膨大な時間の余力と余裕が必要です。定年退職後の再就職と自由度の高さは、私にシェイクスピア全集とヘンリー・ジェイムズのほとんどの作品を読む機会を与えました。シェイクスピアの体験は文学が実人生よりも豊かで幅が広いことを理解させましたし、ジェイムズの文学はありふれた日常が薄気味の悪い神秘と紙一重だと云うことを理解させました。そう、若きサルトルマロニエの経験のように。
 これらの経験を通じてわたくしの生はより豊かなものとなりました。
 末期の最大の贈り物だと感謝いたしております。

 ここ数日、思うところがあって、断片的に読んできたプルーストの『失われた時を求めて』を、今度は高遠さんの新訳で、読めるところから読み始めようかと思います。
 そう思って、夜も更けた昨夜ランプを手元に引き寄せて、第一巻を手に取って読みました、主人公が眠るともなく目が覚める、醒めているのだか眠っているのだか分からない、輾転反側のベッドと、遠い記憶の彼方のシーツの肌触りを、押し寄せてくる過去が銀河の星屑の洪水のように押し寄せ、たゆたい、海流が描く渦巻きのように螺鈿に回転する不思議な夢の幻化の場面をプルーストの幻灯機が齎した幼少期の経験と重ねて読みながら、予想通り辛苦に耐えず深い寝りに落ちていきました。
 ひとの良い隣家のスワンさんが遠慮がちに、しじまに響く、固有な呼び鈴をおして訪問してくるあの時を貫くような印象的な場面までは、年寄りの意思と体力とでは悲しいことに読めなかったのです。

 これから思い出すように少しづつ読み進めながら時折はこれについてお便りすることがあるかもしれません。なにか事業をするように全巻を読み通せるとは思ってもいません。

 

(付録) ”死を死んで、死を生きる”、とは
 死は外在的なイベントではありません。死は概念的には死が肉体的に完結した段階で終わるのではなく、死は自らに相応しくなるために、死をその終着駅に於ける極限態としての死を死ななければなりませんし、他方に於いて、死を死ぬと云うことは、他なる者にとっては、死を生きると云うことに他なりません。その時、外在的な出来事であった死は、到来されて来ったものとしての死として引き止め引き請けられ、主体的な死を死ぬと云う無限の過程にも似た循環作業が始まるのです。これを仏教の立場からは無明長夜と云うのです。とはいえ悟りを得ることは遥かに容易く、悟りを放下し、無明のうちに留まることを覚悟として引き請ける、実存と云う物語の内容なのです。ちょうど顕界と冥界の境界を惑星のように往復する御息所の譬えのように。
 日本人の古来的な死の在り方のなかには、このような死生観があったように思われます。