アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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日本人の男らしさの矜持 アリアドネ・アーカイブスより

日本人の男らしさの矜持
2018-05-24 08:18:57
テーマ:文学と思想

 昨今の様々の不祥事に伴う男たちの言い逃れの構図を見ていると、日本人の男らしさの論理はどうなっているのだろうか、と思う。私はなにも昔は良かったなどと云う話をするつもりはなくて、終戦前後の若い学徒を未来の見えない戦地に追いやり、のうのうと生き延びた老人たちのその後を許せない、と云う気持ちはいまでも変わなくあるのです。その後老人たちの一部は、軍事施設などの備品を流用、転用し、それを元手に戦後経済の一角に食い込み参入していったのだと聴きます。経済だけではありません、思想的面も含めたかかる変節が変化し、化学反応にもにた巧みで奇怪な生き方が戦後社会の繁栄を支えた理由のひとつでもあることなども諸文献等で知っております。良い意味でもそうでない意味でもその象徴的存在が、たとえば岸信介などと思っているのですが、その話を蒸し返すつもりは毛頭なく、そういう類の一般論を話しをしたいのではないのです。
 一度ついた嘘は嘘を吐きづつけるほかはなく、その嘘を守りきるために多くの人に嘘を吐かせる結果になる。自分のために多くの人が嘘を吐かされ、自殺者をも出しているのを傍目にみながら知らぬ存ぜぬを押し通し、見ざる聞かざるの厚顔無恥ぶりを発揮する。自分の妻がメディアの前に無知無学問ぶりをさらけ出して見せ物小屋めいた様相を呈しても、それですら一日の放任放置は一日の自己の延命に繋がる!とばかり、妻の愚かさですら逆手に取って素材として利用する。すべては自身の保身と弁解に流用できれば由とする、こうした倫理観の持ち主のひとりを頂点とした政権運営がなされていると云うのが昨今の日本と云う不思議の国の構図なのです。
 森友、加計学園も佳境に入りつつありますが、昨夜は日大アメフト部の大学当局の会見で持ちっきりでしたね。某国の某首相にとっては関心がそちらに向いて、つんぼ桟敷に置かれていた件の「北」の後戻り現象とともに、嬉しい偶然が重なったことでしょう。しかしメディアが言わないのは、この男たちの両者の言い逃れの構図が実に良く似ていることなのですね。その言葉こそ使わなかったのですが、西田監督の言い逃れは、さも学生が意図を曲解して”忖度”したかのようない言い分でした。日大は私学の雄として代表的存在ですから、きっと一国の首相の人品、品性に見倣ったのでしょうよ。この国の男たちの倫理は悪いことならすぐに見習うのですね。

 とは言え、両者には大きな違いもあります。日大アメフト部の特異性は、それが暴行や障害を結果的に引き起こした事件であったことです。他方、安倍事件は、加計学園獣医学部の問題に限れば、地方の活性化と獣医師の新局面への対応と云う良き面も備えており、要は手順に不明朗なプロセスがあった、と云うことであり、それ以上に問題であるのは、疑惑が明らかにされてからの言い逃れの構図を通じて首相その人の人品や品性が顕わになった点でしょう。つまり55年体制と呼ばれた戦後の政治システムの崩壊後に於いては左右のイデオロギー対立は影を潜め、政策や政治主張だけをとおして見るかぎりでは、右か左か分からなくなっている、あるいは右か左かなどの断定はそもそも意味がないんだ、ということを明らかにしている。だからイデオロギーも思想の違いもないのであれば、民主主義国家の定常状態としては、人の信義とか倫理とかがかえって政治の世界に持ち帰られて評価を受け裁定される、と云う皮肉な結果を生むことになるのです。
 森友学園の問題についても、不当値引きの問題があり、これは税金の投入ですから小さな問題であるはずがありません。しかしそれ以上に国民の反発を生んだのは、首相と官邸を取り巻く人たちの品性や人品に対する疑念であったわけです。森友問題の核心である財務省をめぐる問題が事務次官のセクハラ問題で頂点を花電車の如く飾ったと云うのも、翻って考えて見るときに象徴的な気がします。

 自民党をぶっ壊す!小泉元首相の宣言と共に、昨今の国の政治はどちらが保守で革新かわからなくなりました。本当は右でも左でもよいのです。もともと右翼の素質すら欠いた某国の某首相が単なる政治のアイテムの一端として右翼を演じてみせる、票集めの手段として――いッそ「右翼ビジネス」と云う表現の方が適当なのですが、元来から言葉への感性や素養を欠いているために、結果としては汚職や賄賂撮った古典的な政治事件とは異なって、言葉のタームを廻る事件となりました。
 思い返せば、安倍政治の五年間余が全て言葉に対する軽視、と云う姿勢で貫かれていることは象徴的です。2015年9月の安保関係諸法案をめぐる一連の出来事は自らが招集ししておいた学術経験者の有識者会議の結論に対する撤回と攻撃から始まり、二院制議会民主主義の手続きに対する暴力的とも云える多数派の横暴と言葉に対する蹂躙行為で終わりました。現在までも尾を曳く稲田朋美防衛省の日報問題等は、”戦闘行為”を単に別の言葉で言い換える、辞書の変換機能に関する問題にまで矮小化を受けました。言葉の軽さが改めて問われたのです。そして森友学園問題は一年以上の時間経過をへてようやくその全で公文書の書き換えと破棄と改竄であったことがあきらかになりました、加計学園獣医学問題は言った言わない、知っていた知らないの、まるで子供の喧嘩のような事件です。子供のようなレベルの低い事件ですが、そうも言っていられないのは、一国の運命に関わる言葉の権威と品性に関わる問題であったからです。 
 とにかく言葉のあつかいが軽いのです。政治家としての人格がとにかく軽いのです。これらの一連の男女の登場人物に共通する表現は、映画の題名ではありませんが『存在の耐えられない軽さ』。
 
 私が2015年9月以来特段の関心を注ぐようになったのは、政策や政治思想と云う高度で高級なレベルの問題ではなく、某国某首相の言葉に対する敵意を秘かに感じたからでした。他の人には安保関係諸法案をめぐる攻防は国防問題と憲法解釈をめぐる問題であったのかも知れませんが、私には言葉と文化に向けられた挑戦と云う意味で看過できなかったのです。その当時はまだ朧気だったものが、森友・加計事件を通じていっそう明瞭に、文書と発言と記憶をめぐる、将に言葉の問題をめぐる攻防であることが今日、誰の眼にも分かるようになったのです。

 安倍首相の、言葉よりも実行力!

 美しく響くキャッチフレーズですが、彼の本心が言おうとしているのは行動の真摯さ果断さのことではなく、言葉と文化に対する軽蔑と敵愾心なのです。
 自ら膿を出し切ると云いながら、具体的にどういう行動が示されたでしょうか。証人喚問について何故消極的なままであることが許されるのでしょうか。

 戦後七十三年、官民学等の組織疲労は最終形としては安倍晋三氏のような軽い形の人間の類型を生み出してしまった、と云うことになります。行動力!実行力!と云いながら本心は言葉に対する無理解、軽蔑と敵愾心、そして真実への恐れが隠されてあります。行動力、実行力と云いながら、肝心なところでは本人の実行は伴わないのです。口では膿を出し切ると云いながら、膿は本人から出ているのです。
 これからの若い人たちや子供たちがこんな映像を毎日毎日メディアをとおして見せつけられて、尊敬できる大人に学校でも職場でもめぐり逢えないと云うのは不幸なことです。一昨日、日大アメフト部の選手が加害側であるとは言え、真摯に真実と向き合った姿勢がかくも国民に高揚感を与えたのも、国民がいま最も欲するものが何であったのかを如実に語るものだと言えるでしょう。 
 だんまりではなく、良いことは良いと、悪いことは悪いと言う、とりあえずは言葉を形にして口に出して言ってみる、かかる言葉の練磨と交互作用のなかでこそ言葉は生きるものですし、言葉をなおざりにする姿勢のなかで言葉は死んでいくのです。