アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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鈴木清順映画月間最終日――『河内カルメン』と『オペレッタ狸御殿』 アリアドネ・アーカイブスより

鈴木清順映画月間最終日――『河内カルメン』と『オペレッタ狸御殿
2018-05-29 18:51:49
テーマ:映画と演劇

 
 最終日は午前中に『代わりカルメン』をみ、午後から『オペレッタ狸御殿』を観る。 
 河内に隣接する生駒山系の麓の村に住むもぎたての果実のような娘が、初恋をし、村祭りの夜に暴漢たち襲われ、貧しい実家では母親が生臭坊主相手に春を鬻ぐという生活に絶望し、都会の大阪に出て、バーやキャバレーを皮切りに、モデルやお妾さんなどの裏道航路の経験を経て、得たものは少なく、元気であることだけが取り柄である、と云うような映画である。
 この映画で良いのは前半部の、キャバレーの客である信用金庫に勤める中年の男が、貢挙げて身を持ち崩し、会社も退職させられて主人公を頼ってくる数日間の生活風景である。案に相違して、娘は落ちぶれた旧知の客を邪険に扱うかと思いきや、途中から自分にも責任があると、自分のアパートに住まわせてしまう。男も良くしたもので、娘が優しくしてくれることも分相応の幸運だと達観し、日々の生活の中でご飯を炊いたり洗濯をしたりと云う「主夫」ぶりが板につく。そうして娘が新たにモデルとして転身して行こうとすると、あっさりと身を引く。この潔さが胸にジーンと響く。
 後半は目まぐるしく身分も環境も変わり、都会生活に失望したのちに一時帰省した故郷では、例の生臭坊主が母親だけではなく娘の妹まで篭絡していた。これには怒り心頭に達して、色仕掛けで誘うが如く生駒の不動が瀧の断崖絶壁に誘い、殺したのか誘導したのか曖昧だが、結果的には生臭坊主は瀧に転落して死んでしまう。一応妹の仇を打ったと云うことだろうが、性愛観の古さは原作にあるのか鈴木のものなのかりか分からない。こうした事情で命を落とす生臭坊主こそ、いい迷惑であった。
 以上、話の筋を追う限りでは何でもない映画だが、戦後の生駒と云う大阪近郊の里山風景が懐かしい。一転して大阪の道頓堀やミナミと呼ばれた夜の歓楽風景も懐かしい。こういう時代の記憶を残すものは日々少なく、もはやあり得ない彼方の風俗になってしまった。
 元来が野川由美子と云う女優さんの奔放な美しさを引き出すための映画であると解釈すれば、一応の評価は降るのだろう。むしろ、私にはこの映画は洒落ていて、イタリア映画のネオリアリズモを思わせる、バイタリティにとんだ映画であると云う印象をもった。そういう意味では野川由美子の雰囲気は日本人離れしていたとは言えるだろう。
 一番好きな場面は、雨に日に野外に置かれた五右衛門ぶろに彼女が傘をさして入浴する場面である。実際にこんな風景は観たことはないが、小さい頃、観ようと思えが私の周辺にも探すことのできそうな風景である。

 『オペレッタ狸御殿』もまた他愛のない話である。独裁者の安土桃山と云う男がいて、世界で自分が一番美しいと自惚れている。自分の目の前に自分より美しいものが現れそうになると、それが奥方であろうと実の息子であろうと容赦はしない。奥方は十数年ほども前に山に追放され生死は定かでない。ついに追放の憂き目にあった息子の場合は、ひょうんなことから狸御殿のお姫様と恋に落ちる。狸御殿のお局の萩が、一面では人間との恋を好ましからざることとして妨害を受けながら、他方では何度となく彼女に助けられる。幾たびかは艱難を潜り抜けるのだが、遂に悪漢安土桃山の手に掛かって姫は命を落としてしまう。彼女の命を蘇らせることができる金色の蛙を求めて神秘の山に深く入り込み、一旦は手に入れるものの息子もまた雪深き山岳で命を落としてしまう。
 こうして相思相愛の二人とも死んでしまうのだが、ここにかって安土桃山に追放された妻にして母親の亡霊が建ち現れてきて、愛の歌によって二人の命を蘇生させる、と云うものである。
 この映画の素晴らしさは、この亡き母親の映像を美空ひばりのデジタル映像によって復元し、唄を歌わせる場面である。とうに亡くなっている国民的大歌手が、蘇ったようにスクリーンで歌う場面は、理由なく感動的である。
 ところで映画を観た日時とは一日違いだが、六月二十四日はひばりの命日なのであった。 

 テレビでは、スイッチを入れると、たままたひばりの特集をやっていた。「川の流れのように」、彼女の人生そのものであったと云うのだが、朗々と歌う歌声に聞きほれるのは人生の有難さ、希有の瞬間である。