アヴィニヨンからの帰り道 アリアドネ・アーカイブスより
アヴィニヨンからの帰り道
2009-03-23 19:28:05
テーマ:宗教と哲学
アヴィニヨンの異端審議所を後にした失意のマイスター・エックハルトが到達した最終の立場は「所有としての知」を超えること、つまり「認識」を超えることであり、「清貧」は新たな知の受肉の場であったようだ。かくて言語で語られ、論理で思惟された<神>、つまり理解と認識の<神>は超えられることとなる。
もはや彼は遠慮すべき何ものもなくなったのか、<神>と<神性>の違いについて雄弁に語る。<神>とは「顕れたる神」のことであり、<神性>とは「隠されたる神」のことであった。従来われわれが宗教の名のもとに是非を議論して来たのは主として「顕れたる神」のことなのであった。
「顕れたる神」とは、、認識の問題としては「所有としての知」なのであり、実在の問題としては「造られたる神」である。「なぜなら私たちが神を造られたもののはじまりと考えるかぎり、私の本質的存在は神にまさるものであるのだから」
以上、ゲハルト・ヴェーアの「評伝マイスター・エックハルト」をもとに、エックハルト最晩年、アヴィニヨンからの帰り道を想定してみた。伝承としてわれわれが伝え聞くのは、こののちケルンに向う途上ででその足跡は杳として途切れてしまうというのだが。
「顕れたる神」の問題は、現代哲学に引き据えて論じると、「対象性論理」「対象定立的思考」のことであった。「隠されたる神」とは<現存在>、すなわち存在が現成する<場>のことなのであった。
一般に知とは、さまざまな多様な知のありようの中の、有力ではあるが限定化された一例であるにすぎない。かかる知の独善的ありようが、今日紛争や環境破壊をもたらした思想的遠因であることは明らかである。現代哲学とキリスト教の最前線は意外と接近しているのかもしれない。