アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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マルタとマリアについて アリアドネ・アーカイブスより

マルタとマリアについて
2009-03-25 10:22:53
テーマ:宗教と哲学

3月25日す曜日 晴れ 朝から風が強く肌寒い朝である。ゲハルト・ヴェーアの評伝マイスター・エックハルトはルカ書第10章にかなりの紙面を割いている。イエスがとある村を通りかかるとマルタとマリアという二人の姉妹がもてなし迎える。マリアはイエスの足もとに座って話に聞き入る。マルタはせわしない家事に駆け回る自分を少しは省みるようにイエスにたのむ。イエスの答えは、マリアは正しい行いをしているというものであった。

しかし師エックハルトが導き出した結論は通常とは反対だった、ピエティスムすなわち受動的な寂静主義よりも日常への義務を優先しているのだという。私たちは例えばウエーバーの世俗内禁欲という言葉を知っているのでこれを「学理」として理解するのはさほど難しいことではない。ただルカ書10章を素直に読んだとき、これは苦しい、という気がする。師エックハルトには日常身につまされた経験のようなものがあったのだろうか。

エックハルトの呼びかけが理解されていた証拠を示すアールツエンの絵画が存在するという。エックハルトの解釈を支持する社会層が当時存在していたとするならば、私の述懐は崩れる。後世、ウエーバーにまで尾を曳くことになる北方プロテスタントの「ザッヘ」、すなわち日常的責務への要求は、啓示の受肉化の過程として理解することが可能かもしれない。

エックハルトによれば、啓示は二つの過程を踏むことになる。受胎と産む力、受肉化の過程である。受胎告知を聴くためには乙女でなければならない。生み育てるためにはマルタのような成熟した女性<妻>でなければならない。受胎と生産はキリスト教では表裏のものとして理解されているらしい。

ここのところはなかなか理解することが難しい。乙女でなければならないとは、形象にとらわれることのない自由な人である、と言っている。イエスその人が形象にとらわれることなき人であるから、乙女のようでないとだめなのだ。ここは同義反復ではない。

現代哲学の言語を用いたらどうなるのだろうか。――個的人称的主観性がその底において極まる内在性において、主観―客観といった「外側から」なる論理ではとらえることができない領域が存在する、と言っていいのだろうか。世界内存在をその内在性に即して徹底すれば、たぶんこのようになる、哲学においても。

それでは<妻>でなければならないとは、どういうことだろうか。思想とは、もしかしたら受肉化という過程を経ることがなければ、絶えざる変質と異端の誘惑に屈せざるをえないと言っているのか。あるいはヴェーアが上田閑照の言葉として引用しているように、形象なき神とは突破されたものとして、日常性に再復帰する事態を言っているのだろうか。

啓示と受肉化とは臨床性を<場>として展開する。臨床性とは世界内存在が身体化の方向への徹底化として生じる。現存在とは人間存在の別名なのではなく、人称的主観性が徹底的な内在であると同時に、<存在>が現成する原初的<場>でもあるのだから、論理的に、あるいは先言語的には神に<先立つ>と一応は言うことができる。

しかしこうなると、その名づけえぬものを、あえて<神>と語る必要があるのだろうか。