アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ジェイン・オースティン『エマ』・ⅲ

三年前の記事になりますが、要は、ヘンリー・ジェイムズの眼でジェイン・オースティンを読み込む、読み直すという、試論的、革新的、かつ扇情的な読み方を期待した論文です。お上品なオースティン像など糞くらえ!英米文学を研究される方に読んでほしいと思いました。

 

 

オースティン『エマ』・ⅲ
2017-06-05 13:16:52
テーマ:文学と思想

 

 結局、日本語にして上下二段組五百ページに迫ろうとする長大な物語を読み終えて感じる不思議な不全感は何だろうか。一連の謎解きにもにた婚礼ゲームを演じ終えて、最終的にはかくも目出度き寿ぎの次第を作者オースティンの自信たっぷりの「美」解説として最後に聴くわけだが、読者がこれで全て納得するわけではない。
 フランク・チャーチルとフェアファクス嬢の最終的関係に満足したのであろうか。あれだけの性格の違いがありながら、これからも幸せな結婚生活が営まれたという保証を得ることが出来るのだろうか。それにしてもお似合いとは言えない二人のカップルが結び合わされる必然性はあったのだろうか。より分からないのは、フェアファクス嬢はフランクのどこに魅かれたのだろうか。フランク・チャーチルの家柄、経済力、その他のくだらない理由であったとわたくしは信じている。
 それにしても、運命を両天秤にかける優柔不断で不誠実の男フランクを、わたくしは人間として信用できない。作者は、貧しい叔母夫婦の貧困に報いるためにこの孝行娘はお金持ちとの結婚を選択したのだ、と書いてほしかった。
 主人公とされているエマと云う人物についてもよくわからない。軽薄で愚かにもかかわらず世話好きで人間よしと云うだけの、オースティンにとってだけリアリティが感じられる人物について、とうてい人間としての魅力を感じることはわたくしには出来ない。ナイトリーのエマに奉げられた騎士的な愛は、中世の名残か、ファザーコンプレックスであるウッドハウス家の家風に奉げられた形式的で滑稽な儀礼歌であるとしか思えない。エマとは、父親への愛の故に自分は結婚はできないと思い込んでいる娘なのである。父親であるウッドハウス氏の過保護が娘の世間知を狭め、いままたナイトリー氏の古風で騎士的な愛が、兄妹愛の変形として、世間の荒波から彼女を隔てるのである。
 ハリエット!純情でこれと云って取り柄のない素直で信じやすい娘!しかし彼女は終段で驚くほどの人格的な変貌を見せる。猫を被っていたのか。身寄りのない彼女の境遇からすれば、保護者の意思の外側に出て意思し思考すると云うことが凡そリアリティを持ちえないことは理解できる。そこに依存体質の彼女の哀れさと云うものがある。オースティンの描き方は彼女に対して十分に公平で同情的であったろうか。その依存体質も生得のものではなくて、ある時期に於いては拒むことが困難な条件の如きものに過ぎなかったのであって、彼女もまた時期が来れば蝶のように古い意匠を脱ぎ捨てる。そうした物語的世界に於ける時系列の不連続な断面が描かれていて後半の変貌もさほど不自然とは感じられない。しかしそれを言うのであれば、当初作者が見せた紹介の仕方は必ずしも自然ではなかったとは言えるであろう。
 エマの実父であるウッドハウス氏!彼は本当に、描かれたように単線的なお人好しの馬鹿であるのか。彼の擬態の底にあるものとは何だろうか。
 エマの尊敬する元家庭教師兼友人であるアン・テーラーこと後のウエストン夫人!有能な職業婦人と紹介されていながら、彼女はいつの場合も有効な助言やアドバイスをしてきたと云えるのだろうか。またその夫になるウエストン氏とは誰なのであろうか。相当の俗物であるとしかわたくしには思えない。
 唯一、欠点ほどのものを持たないのはジョージ・ナイトリー氏だけであろうか。彼は終始エマのわがままを見守り導く、真の意味の家庭教師である。しかしその家庭教師的な関係は、兄と妹の関係に近い。ナイトリー氏ともあろう程の常識人にして名望家、学歴見識、そして堂々とした容姿ともに備えた地方の名士が、なにゆにこそ愚かな娘を配偶者として選ぶのか、しかも父親のために半ば養子縁組にも近い形式で謙りつつ夫の位置に収まると云うもの、ありそうもない話故にリアリティがある。人生とはこうしたものだと、オースティンなら空とぼけて言いそうである。
 ナイトリー氏の弟のジョン・ナイトリー!兄に比べたら可哀そうであるが、作者によって好ましくはない俗物とて当初紹介されたにもかかわらず、家庭を守るためにはしっかりと決断し、必要な場合は利害を捨てて行動のできる人である。その彼と妻に対して、オースティンの描き方は余りにも公平性を欠いている。
 最後に、良いところのまるでないとされるフィリップ・エルトンと出しゃばりの牧師夫人の二人。エマや作者が口を極めて嫌悪するようなことを二人がしたと云うのだろうか。ハリエットとの縁談話はエマの側が勝手に思いついた空想に過ぎないし、エルトン氏の寄る辺ない環境からすれば裕福な持参金付きの娘と結婚する必要があったのだろう。そうした裏の事情については書くことなく、一方的に、利己心とか計算高いとかの観念的な理由で断罪される。夫人にしてもお節介が過ぎる、出しゃばりであると云うだけで、村の社交界に居て枢要な位置を占めたいと云うだけなのである。それをエマは自分の既得権が侵されることをもって、それが建前としては正々堂々の論理としては主張しえないがために、旧式の倫理道徳の徳目を引き合いに出して、生まれがどうの育ちがどうのと云っているにすぎず、それを咎めだてもしないオースティンの描き方にこそ不公平さを認める。

 つまり、世に言われているように、オースティンは神の如き眼差し、善悪を超えた等質で均質な濁りのない眼で描いているわけではないのである。
 むしろ濁った眼で、最初から「わたくしはわたくしの愛娘であるところのエマについて依怙贔屓の眼で描きますよ」と書き出しているのである。しかも悪びれることなく、胸を張って公然自若として、堂々と!
 しかし翻って考えて見るに、オースティンの描き方は、作者と云えども人間であるから公平性や平等性は請け負いかねると云う、正直な意思表明とも受け取れるのである。
 つまりオースティンの文学とは、語られる作者の語りに偏差や偏りがあり、また物語的世界に必要以上には作者が介入してこないため、登場人物の言動やアリバイ証明を通じて得られた資料や伝聞の範囲で最も合理的だと思われる判断を自らの責任の範囲に於いてその都度ごとの結論を手探りで下すことになる。読者は最初から卓越した立場を先験的に与えられているわけではなくて、主人公であるエマと同一水準の、あるいは同一地平の、相互に噛み合いあるいは相反した見解を互いに比較して披露し真偽の妥当性を確認しあう、という読み方が必要なのである。つまり読者の立ち位置は登場人物たちが生きている世界よりもより一段と高く見透しいいが良いわけではなく、通常読む場合の約束事が作者に寄って保証され得ない世界なのである。
 つまりその読み方とは、われわれが現実の世界を生きる場合の手法と違わないのである。わたくしたちは初対面の相手に対して何事かを知ろうとする場合に、最初は当人の表情や言動や意思伝達の能力を通して知ろうとする、次に、彼を知る友人知人、縁故関係にある者どもの意見も参考として聴いてみて自らの判断を検証しようとする。そうしてわたくしたちはほぼ確からしき偶像を手にれるのだが、それが正確であるという保証は誰も与えてはくれない。現実世界をめぐる不確定性の問題は人間観察の事象だけでなく、様々な人生の諸局面に於ける状況や事象において、わたくしたちは手探りで現実を手引き寄せようとする。その場合のリアリティの根拠は何が客観的に真実かと云うよりも、私たちが感じる現実が持つ手応え感の他にはなにもないのである。リアリティの保障は、実際にはある一定幅の期間を生きてみて可能性が確からしさへと、確からしさが蓋然性へと変化する主観的確信の世界に於いてでしか確かめる術はない。こうした世界では、もし確信犯的に誰かが嘘を言っていたりまた相手が偽善者であることを少しも恥じないような人間である場合は視界の歪み、判断の不確定性は防ぎようがないのである。
 オースティンのロマネスクの世界に参入するとはそういう意味なのである。オースティンの語りの世界に参加するとはそういう意味である。いっけん語りは滑らかで、均一で、この上なく平板、平凡のようでありながら、やはりわたくしたちの日常生活の事件や出来事、こまごまとした些細なシークエンスを通過する場合においては、不連続面に雁行して展開する。いままで平明だと思われていた視界は一瞬閉ざされて、わたくしたちは幾つかの断層を不連続な壁面に添って手探りで通過していかなければならない。その時、思惟判断し、意思選択、あるいは意志するのはわたくしたちの各々の一人一人なのである。誰も他者が自己に成り代わって思惟判断、そして意志するわけではない。生きることとはそういいうことである。生きることに伴う、オースティン・ロマネスクの臨場感とはそういうい意味である。絵空事を描くものとして出発した筈のリアリズムは一転して、オースティン的なロマネスクの世界のなかで現実の不確定な感触を想い出すと云うことなのである。
 オースティンのロマネスク=リアリズムの世界は、ロマンをこの世を超えた異常現象や、反転してありそうもない感傷的な物語世界的絵空事を批判的に描くことをもってして近代小説の基盤として定義すると云う姿勢に於いて出発しながら、他方において、現実そのものと通常は考えられがちな現実主義や写実主義が自らの志向が不可避的に持つ世人としての惰性態の空疎な外殻に、瞬間的に罅を入れると云う意味で、なかなかに辛辣で大胆な日常批判を、近代リアリズム小説の革新的な意義を今日に於いてもなお有しているのである。


 最後に、ネットで眼にしたhttp://www.geocities.jp/utataneni/という方の漱石のオースティン論を、以下にお借りして紹介しておく。引用元は有名な漱石の『文学論』である。余りにも有名な日本文学「史」上の出来事なので、初見の方の参考になればと思い。

Jane Austenは写実の泰斗なり。平凡にして活躍せる文学を草して技神に入る(略)

Pride and Prejudiceを草するとき年歯廿(わたしののおっせかいな注 二十)を越ゆる事二三に過ぎず、しかも写実の泰斗として百代に君臨するに足る(略)

今代の認めて第一流の作家と疑わざるもの、(略 『分別と多感』によって)得たるは僅かに百五十磅(わたしの注 ポンド。しかしクレア・トマリンの佳作『ジェイン・オースティン伝』によると140ポンド)に過ぎず。然もAustenは過大の高額とせり。天才の冷遇せらるゝや概ね斯くの如し。然れども(略)一八一五年に至ってAustenは既に文壇の意識を動かして、之を吾が方向に推移せしめたりと云うも不可なきが如し(略)

上2つは、第四編「文学的内容の相関関係」第七章写実法より
最後のは、第五編「集合的F」第六章原則の応用(四)より
なお原文は旧かな・旧字体