アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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江藤淳の青春――『アメリカと私』を読む アリアドネ・アーカイブスより

江藤淳の青春――『アメリカと私』を読む
2015-06-14 22:23:07
テーマ:文学と思想


・ 江藤淳の『アメリカと私』を読んで、わたしは違った表情の江藤を見出す。この書は本人もそう書いているように、江藤淳と云う批評家がアメリカと出会う話である。アメリカとの出会いを通じて、どう変わったのかがテーマになっている。事実、本人もそう語っている。
 しかし、元来江藤のような人間が、そう簡単に外的事情や条件で変わってよいものであろうか。当時の日本は、日本人の海外熱も加わって、世界の広さに出会って変わってしまった自分を強調しないと出版社や世間の事情が納得しなかったから、そうしたことで本人も最初は書きはじめたのかもしれない。そして実際に江藤夫妻は変わったのである。
 二年間のプリンストン留学の中途で一度だけ所用のために帰国した彼が、引き返した彼がアメリカの空港で見出した奇妙な風景、――「弾力のある」アメリカ風の歩き方をする一人の東洋人の女性が妻であることを確認するまでに躊躇の数分をようしたという部分などは、実際に最近は自分までもが外国人に間違えられると云う江藤自身の身近な経験の平衡性によっても裏付けられたのごとくである。何時しか向こう風になっていた、と云うのである、もちろん目に見えないところまでアメリカ風に!

 もちろんわたしは、江藤ほどもののがこう言うのを単純には信じない。二十歳前後で『夏目漱石』を書くほどに卓越した早熟性を早くから示し、異文化の経験などで変わりうるほどには江藤淳は成熟しすぎていた、と思う。変わったのは江藤ではなく、日本では表に出せなかったもう一人の江藤淳が、妾の子のように息をひそめて時間の苛烈な淘汰にもかかわらず窒息しないで生きながらえていて、アメリカと云う国でだけ息を吹き返した、と云うことではなかったか。何が幸いしたかは単純には言えないけれども、歴史も伝統もなく個人のがむしゃらな生き方が生存競争を保証する風土の頑ななさが、彼のひた向きな抽象的な生真面目さや頑なな性格と奇妙な合致をみたのではなかろうか。

 それで二年間の有期の留学時代が終わる頃には、帰国と云う観念が脱落していたことに改めて気づいて本人が驚くというようなことが起こりうるのである。二年間のアメリカでの生活がすっかり身についている自身を見出しても、それが自然な成り行きでもあったかのように感受するもう一人の日本人を発見するのである。

 わたしがこの本で一番感銘を受けたのは、戦前戦中の建前しか言えない時代を生きた江藤にとって、常に身構えて生きると云う生き方は半ば強制化された習慣化された生き方であったのだろうと思う。化石のように身を鎧で覆い、それが長い習慣化、慣習化されたことによって外から身に纏った鎧とは言えないまでに一体化され、有機化され体質化された、個人の現実受容の形式となっていただろう、と思う。戦前の没落した中産階級と云うことも関係していたのかもしれない。
 ところが時代は敗戦を機に、雰囲気は一転して、今度は、自由と民主主義を語らなければ白眼視されるような時代を迎えていた。当時の雰囲気は、まるで戦前戦中の床の間を飾る置物が違うだけで、建前しか言えない窮屈な時代であると云う意味では少しも変わらないように感じられたのである。
 自由と民主主義の敵である日本人はアメリカの正義と西洋の神によって罰された国民であり、広島や長崎への原爆投下は日本人の原罪であり、二度と繰り返しません!告解であり、そういわなければ「非国民」視する戦後と云う時代が思春期の江藤の前には広がっていた。本書にはこうした日本人の屈折した心情も語られている。

 アメリカと云うところは江藤の目には、イデオロギーや観念抜きの単純明瞭な適者生存の熾烈なダーヴィニズムの世界であり、そこは程々の実力さえあれば、正式のソサエティの一員として迎える儀礼を知る社会でもあった。本音と建前を巧みに使い分けて生きると云う小技が必要とされない世界であった。
 江藤が感銘を受けたアメリカの風景は、それぞれが生真面目なほど他者と競合しながら真摯に努力する実利実学の世界であった。それは高尚な理想や理念を語らず、かりに利己的な立身出世のためであろうとも、社会の中に正当な椅子を確保するためであったにしても、それを恥じる必要が無い社会であった。
 日本では向きになって努力する姿勢が何か半社会的な行為であるようにも一部には受け取られ、闘志をむき出しにする生き方は下品なこととされているのである。しかしそれでは綺麗ごとばかりも言えないから、努力しなければならない局面では日本人は人に隠れて人を欺いて努力する、と云う名人芸がモノを言う世界にならざるを得ないのである。  
 もちろん例外もあって、努力しても報われない生き方には寛容なのである。日本人はこう云う対価に見合わない生き方が好きで、純粋な無私の精神であるとか健気な生き方であるとか、要するに評者自身が言ってほしいことを社会的弱者の姿のうえに投影し、自分を道徳的に一段と高い人種であるかのように錯覚するのである。
 戦前と戦後の違いは、建前として標榜される徳目が違うだけで、偽善の構造は少しも変わらないように思えたのである。

 わたしは『夏目漱石』でデビューした頃の江藤を知っているけれども、若いのに老人くさい文章を書くので少しも好きになれなかった。もっともその頃までは、才能があると云うことと老成と云うことは定義上等しかったので、老人ぶると云うことはあり得たのである。
 それは良いとして、彼の文章がちっとも好きになれなかった。名文と云うのでもなく悪文と云うのでもなく、一言で云えば変な日本語なのである。その日本語の変な語り口が、彼のファンには堪えられない快楽でもあるらしく、まるで寄席の通人の語り癖のように、彼の文体そのものを真似て話す話し方をする友人が近くにいて、辟易したものである。(最近は、柄谷行人の文体そのまま再現したような話し方をする人種を再発見して時代の変わらなさに慨嘆したものである。)

 『アメリカと私』の魅力は、受け入れがたく思われた言語と文化の壁が溶解するに従い、自己の中に生まれていく日本人の誇りであり、プリンストン大学等で行ったレクチュアを通じて教えながら学んだ日本古典文学の遺産との再会であり、日本人であることがそのままアメリカ人としても生き得ることの是認、つまり人間としての江藤淳アイデンティティの確認の旅でもあった、と云うことだろう。日本人江藤淳世界市民と地続きになる極めて稀な瞬間を演出した時代であったと云える。
彼の衝撃的な処女作『夏目漱石』は、日本に生きることの固有さを問うた文学論である。文学論であると同時に彼自身が言うように文明批評でもあった。『アメリカと私』は、それとはちょうど結論が逆になっていることを指摘したい、つまりコスモポリタンとして生きることとはどういうことであるかを描いた半自伝である。
 戦後と云う、彼のような人間の目には敵意に満ちた社会の中にあって、老成した職業人でありえることでしか生き得なかった江藤淳と云う男にとって、やはり青春はあったと云わざるを得ないのである。実際に、後年、病魔に侵された夫妻に訪れる極限的な生と死の時間のなかで、一番目に思い出されたこの世の思い出として到来するのはプリンストンの思い出なのである。(『妻と私』)

 わたしが先に変な江藤の日本語と云ったもの、つまり何故この人はかくも身構えて文書を書くのか、と云う素朴な疑問が一部とける雪解けの瞬間でもあった。だれもが江藤個人を憎からず感じているのに、この人だけはまるでドン・キホーテのように敵のないところに敵を造り、仮想の敵を切りまくり自分こそは文壇のチャンピオンだ、と云わんばかりの強がりがわたしには分からなかったのである。

 『アメリカと私』は異文化体験の代物などではなく、これを読むことでアメリカをよく知ることが出来るわけでもなく、賢くなるわけでもなかった。日本にいる限り不可能であった、素直に生きると云うことの普通さ、普通であることの尊厳が江藤に初めての気づきとして訪れた、カントのルソー体験のミニミニ版のようなものでもあった。
 『アメリカと私』は東海岸の清冽な雪解け水と春の到来を告げる季節への別れの場面で結ばれている。プリンストンに別れを告げるバス停の場面は良い意味で平凡である。

「・・・・・バスが動き出すと、マリアスとマリアの父と子が、まるで日本人のように、いつまでもじっと立ちつくして、見送っていた。さようならマリアス、さようならマリア、さようならジーン、さようならプリンストン。」
 映画『シェーン』のパロディであるなどと云う野暮はわたしも言わないことにする。