アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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「純粋経験」について、なお良く考えてみたい アリアドネ・アーカイブスより

純粋経験」について、なお良く考えてみたい
2009-04-06 20:53:24
テーマ:宗教と哲学

上田閑照の『西田幾太郎とは誰か』中から該当箇所を引用してみます。上田は森有正の「経験」概念との類似性についてにふれて

森有正の文章に、西田ならばまさに純粋経験と言うであろう経験の叙述を見出しましたので参考までに引用してみます。

この間、支笏湖へ数日行って、殆んどスイスの湖水を思わせるその美しさに驚いた。ホテルの窓からは、嵐を含む暗い荒天の下に、斜めに夕陽をうけて白銀のように輝きながら波立つ湖が山に囲まれて広がっていた。・・・・・こうゆう自然を前にして・・・・・私は幸福であった。人間がつくった名前と命題とに邪魔されずに、自然そのものが裸で感覚の中に入ってくるよろこび、いなそれは「よろこび」以前の純粋状態だ。あとになってから、私はこの状態に「よろこび」という名をつけるのだ。人間がつくった名前や命題は、それがどんなに立派なものであっても、それ自体で自分の感覚に一つの状態を惹き起してしまう。それは実物が私の前に現れた時の間隔を変容させすには措かない。・・・・・支笏湖の原生林が高緯度の冷たい夏の太陽の光を浴びて燦めく中を歩きながら、私は幸福であった。顧みて私はそれを自分の経験として完全に肯定することができる、というよりもむしろ、この純一な経験によって自分というものを知る。あるいは自分が生まれさえするのを感ずるのである。これはあらゆる凡ゆる理屈をこえた事実である。そこで私は、こうゆう感覚に即して、自分に直接触れる。それは、一つのパトスの極限態であり、自分というもの、さらにそれを通して人間、を定義する一つの要素となるものである。
 自分が在ってそれが何かを感覚するのだ、という事態から脱け出さなえればならない。充実した感覚こそ、自我というものが析出されて来る根源ではないだろうか。・・・・・この状態を感覚の純粋状態と呼んだが、私はそれを「感覚」と呼ぶ以外に何と呼んだらよいのか判らない。それは感覚を定義するものである。(森有正『木々は光を浴びて』より)

そして森有正は経験の質の問題といい、<感覚の純粋性を回復する>と言います。」

これに対応すると上田が考えているのは西田の有名な次の言葉である。

個人あって経験あるにあらず、経験あって個人なるのである。(『善の研究』序文)

西田の「純粋経験」と、森の「経験」の重なりあいを、この上なく顕著に説明しえている部分である。勿論西田と森の経験概念が、どの程度重なりどの程度そうでないかを言うためには、両者によりよく通じた者が判定を下すと思うので、これ以上は言わない。

話題を替えよう。
芭蕉の『奥の細道』は、半ば先哲の跡を慕うみち行き、本歌取りのみちゆきであった。「ありのままの自然」をみず、歌枕や枕詞の概念を通じて自然を再生するのである。自然は造られたものとして、ある。

日本アルプス」という言葉ほどケッタイナものはない、という知人が私の周りに一人いる。頑固者なので齢八十歳を超えたいま、なおることはさらさらあるまい。
何かの記事で読んだのだが、明治時代に来日した有名な登山家によって命名されるまでは、日本人は今日ある信州の奥地に存する山河の美しさを知らなかった、というのである。それ以前の日本人は何に美を感じたか。葛飾安藤広重の浮世絵を通じて自然を感じていたのである。
吉野の桜も、嵐山の紅葉も、原生のものではなくて、人と自然がある種の交歓の中に造り上げたものであった。歌や詞で伝承される過程で、それは歴史となり、ついには自然となった。

ヨーロッパ市民社会では、ある時期に<自然>概念の変質を経験したに違いない。ルソーは、自然に還れ、といった。啓蒙人においては、既成性を超えたあるべき起源が復活した。ヨーロッパの起源神話は、存在論的には<実体>であり、認識論的には、別様の、いま一つの<超越せる神>の現前、であった。