アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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70年目の夏に思う――批評の精神ということについて アリアドネ・アーカイブスより

70年目の夏に思う――批評の精神ということについて
2015-06-18 08:37:09
テーマ:政治と経済


・ 漱石の『こころ』と村上春樹の『ノルウェイの森』を平衡読みしながら様々の事を考えました。
 何れの作品も、死者が生き残ったものを如何に支配したか、と云うお話です。死者の呪縛と云うものは聴きなれた話題ですが、シェイクスピアの『ハムレット』やアンドレ・ジッドの『狭き門』などもそうです。この小説の最後の印象的な場面は、ジュリエットがジェロームに言う――目を覚まさなければならないわ」、と云うものでした。
ジッドは的確だった、と思います。

 さて、人間は社会的存在ですから、同一平面上に出会った個人と個人の関係は、初対面の宴会で席次の譲り合いが大きな話題になるように、関係概念を抜きにして人間の対他関係は成り立ちません。これはどうでもいいことでななくて、人間とは欲望的な存在であると近代主義的に定義する場合に於いてさへ、共同体内における個人の位置配列関係は、俗に人間の五欲と呼ばれるものよりも大きいとさえ云えるのです。しかも、人と人との関係性や位置関係に於いて何れかがより有意に立とうとする場合に於いて――それは最終的には人を支配するものとしては、――古代の奴隷制から現代のマインドコントロールまで――死を司るものこそ覇者である、と云う皮肉な側面があるのです。
 なぜ皮肉であるかと云えば、おそらく宗教の起源は、来世とか救いとか癒しであるとか求道的達観とかの高尚な理由によるのではなくて、人が人を支配すると云うことに於いて支配の道具の最高位のもの――すなわち「死」の観念を左右しうる統治の技術として、死生観をめぐって来世の支配を通じてこの世をも影響下に置きつつ露骨に人間的欲望を貫徹せんとするする闘いであったと想像されるからです。最終的に「死」を統括し、制御する権利を手に入れたものが覇者になるというわけです。
 死生観をめぐる闘いにおける僧侶階級の成立は、人間一般から死の意味の棚上げを通じて死生に関する権利一般を僧侶階級に独占化させ、死の専門職とでもいう人類史最初の職業意識を成立させたともいえます。
 死を司るものとしての専門職としての僧侶階級の成立とともに生と死の間にあった緩やかな緩衝地帯とでもいえる薄明の曖昧さの部分が無くなりました。代わって生と死の鋭い対立が現れてきました。これを自然観の方から観ると、人間と自然の間の緩やかな中間域、靱帯が破壊され、自然とは、行為的主体としての人間が任意に働きかけることのできる任意の対象、なんなら仮説的実験と検証を通じて展開される利害と効率化の体系としての近代化科学の誕生まで淵源するような要因を秘めていたとすら云えるのです。
 かってマックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムと資本主義の精神』で述べた、宗教的勤勉と資本主義的精神の中にパラレルなものを見たように、死の専門職化が死生観の簒奪を通じて、単に啓蒙、教化されるべき対象としての客体――ロマネスク様式としての光り輝く物質概念、自然から屹立する内面的意思の表示としての空間ゴシック、そしてうねるバロック様式や歴史主義のファサード概念を経て、近代の堕落した物質概念、つまり近代自然科学を生んだ基になったと考えているのです。

 宗教と並んでもう一つの権力、――世俗の政治権力もまた、死の統治と云うことに関しては僧侶階級以上に並々ならぬ関心を示しました。邪馬台国が死を統括する卑弥呼と、世俗権を統括する「弟の宮」に分割統治されていたことは知られています。やがて宗教権力と世俗権力は数千年に渡る死闘を展開することになることは御存じの通りです。

 卑近な問題に移ると、権力者が靖国問題で死闘を繰り広げるのももっともな理由があるわけです。死者を祀るとは、死の支配学を通じて市民を国家的規模に於いて動員し支配するということだからです。ここでも死者を慰霊すると云う高尚な理由が持ちだされて議論されます。厭らしい現象です。
 さて、ここで昭和天皇今上天皇の立ち位置が微妙なものに見えてまいります。国民の人民主権の象徴としての天皇が国民的祭祀の場面に迫り出してくるのは当然としても、制度としての反動性は明らかだと云う議論は当然あり得ることです。
 しかし戦後史の全体的配置から見ると天皇個人の行為は微妙なものがあって、沖縄や南方の玉砕地を訪問するタイミングは、政局との絡みで云うと微妙なものがあります。つまり天皇が述べられる哀悼の御言葉は、語られた内容とは別にそれだけでも状況に対する、批評と云う側面を持っているからです。影響力の大きさとその持続性の長さに於いて、大江健三郎やべ平連を遥かにしのぐ、戦後最大の思想家ではないかとわたしなど秘かに感受しているところです。

 何を持って思想と云い批評と云うのでしょうか。「批評」の前には「論理」の時代があり、「こころ」の時代があり、「精神」の時代というものもありました。それぞれに論理はマルク主主義的倫理を意味し、こころは周辺的な論理一般として、そして精神とは一義的には大日本精神を意味した時代がありました。
 1950年代江藤淳たちは、かかる戦前-戦時の経緯を踏まえて、批評と云う概念を持ち込みました。批評とは、いま、このとき、の課題を引き受けることだと云うのです。引き受けると云う行為が、同時代の主体性論や実存主義的な機投概念と異なるのは、到来する事態を言語として受け止めると云う、受容性の原理として現れるからです。
 人間存在を言語の受容性としてとらえることは、現実は言語として到来するわけですから、言語は現実が反映されたものとしての言語として、すなわち対象がそれ自体を語る言語としてあるわけですから観念論を超えていると云えるわけです。しかも観念論を超えた言語は、客観主義的ではなく、すでに現状を引き受けるものとしての実存としての言語、すなわちわたしの固有な言語であると云う特性があるのです。
 江藤淳は、正統性の根拠として小林秀雄を持ち上げたけれども、対象性に開かれたものとしての言語としての意味は弱かったように思う。戦後史の過程に、批評と云うあり方を持ち込んだ江藤は、中期以降のイデオロギーの幾つかには同意できないものがあるけれども、今日ともなれば時に浄化されて、エッセンスのみが濾過されて残ったものを見ると、肯える部分が多い。
 江藤の戦後史における貢献には偉大なものがあったと思う。

 批評とは何か、批評家であるとはどういうことであるのか。その批評であることの意味が次第に霞んで見えなくなりつつある今日、――。
 江藤が晩年に取り組んだのは、状況と云うある種の枠組みの中で考えることの偏りであった。戦前の思想統制はもちろんのこと、戦後の民主主義の枠組みもまた必然的に、メタレベルでの偏りを生み出しているのではなかったのか、と云うのが彼の問いかけである。
江藤淳の固有さは、戦前、戦中、戦後を通して一貫していることが挙げられる。戦前-戦後を一貫した論理で貫いたと云うだけなら獄中非転向組もいたけれども、江藤の場合は個人が時代を一貫しているのではなく、個人が個々の時代に串刺しのように貫かれている、という点なのである。)

 この問いかけは、現下の東アジアにおける過去の侵略主義の問題や従軍慰安婦の問題を江藤ならどのように考えたろうか、と云う疑問に誘う。確かに、彼の言説の累積から考えれば結論は容易に想像できる気がする。しかし批評の原理は、彼の純粋な定義に従った場合、今日のメディアに見るような単純な結論を導くだろうか。江藤の真意を想像し、言葉の重い軽さと云うことで言うならば、アカデミズムや情報社会の言葉は余りにも軽すぎた、と云うことなのである。

 批評とは感性的受容性の原理を言葉で受け止めると云うことであった。言葉は重い、そして3・11以降の言葉は軽い。従軍慰安婦問題を事実問題とは別に比喩として受け止めた場合、もしかして東アジアの情勢の中で日本のみが国家の自主独立を曖昧にしてきた国民であること、政治や社会問題を事実問題としてしか解けない想像力の貧困、従軍慰安婦問題とは国内の差別の問題の別様の引用であったことにも考えが及ばない、国民の硬直したありかたを、暗に語っていたと云うことを語っていたのではなかろうか。

 もちろん従軍慰安婦問題は国家間の策謀と狡知に関わる問題である。しかし受容性としての批評の言語と云う側面から見ると、物事を事実のレベルでしか見えない想像力の貧困の問題がある。想像力の貧困の背後には批評の不在、すなわち言語の不在があったと想像される。
 『ノルウェイの森』が作家個人の意図を超えて描きだした風景は、「内面」の不在と云う問題であった。内面が不在であるとは言葉が不在であることを意味する。これは村上の愛読者が鋳型に己のノスタルジーを読みこんだにしてもなんら咎める筋合いのものでもないだろう。評論家柄谷行人が80年代に読みこんだ「内面」の不在という状況は、言語の不在と云うこと、現実をある厚みを持ったものとして観るものの見方、批評的精神の不在であると云うことを意味している。

 確かに東アジアの現状は口で非難し合うほどは心情に於いて乖離していないのかもしれない。東アジアの民が民意としてあるのは、ある意味では言葉を貧しくしてしまった国民への批評であるように思われる。『ノルウェイの森』の問題で云えば、言葉を失ったワタナベ君の後に続くのは、メルヘンやファンタジーの世界である、と云うことにでもなるのだろうか。
 与えられた課題は柄谷行人のように「内面」の不在を客観主義的に証明することではない。ワタナベ君は『風の歌を聴け』の段階に今一度立ち帰ることによって、もう一度言葉を聴く耳を回復することだろう。風の音を聴けとはいみじくも名付けたものである。誤解されやすいが、これでも受容性の原理なのであった。批評はあの頃までは生きていたのである。
 神戸の波止場には言葉の発見があった。スピーカーから流れてくる無機的で乾いた音と云う特性があったが、DJの声ですら一個の固有な音であるには違いがないのだった。

 最近わたしは、覚束なくも頼りない足取りで被災地や過去の線上に小さくなっていく遠ざかっていく両陛下の後姿を拝見するにつけても、動乱の戦後史を生きた、松籟の音にもにた風の音が幻聴のように高鳴っているのを聴く思いがする。
戦後の有力な言説の大家たちが鬼籍に去ったいま、批評の有力な生ける姿の象徴が、その残像が幾重にも重なりつつ、婚礼の日の馬上過ぎ逝く昭和の精神が、風に託して渡っていくのを見る思いがする。

 

 

 

江藤淳が1971年から1990年まで勤務した、
大岡山の東工大キャンパスの並木道。
初夏の日差しに木漏れ日が銀色に輝いている。
潤んだ追憶の涙であるようにも思える。