アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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森鷗外『雁』再見 アリアドネ・アーカイブスより

森鷗外『雁』再見
2020-02-06 22:30:14
テーマ:文学と思想

 再見、再発見と言うべきか。再発見と云う言葉は恥ずかしい。小説を幾度か読み返して発見はあるものだが、今回の『雁』のような経験は希有である。
 まずこれを、金貸し町人の妾であるお玉の悲恋物語とは読まなかった。いよいよ意を決して、猪突猛進するお玉の心意気に打たれた。ここまで来れば、悲恋物語であろうがなかろうが、どうでもよいではないか。女は恋するとどうなるか、と云うよりも、もっと普遍的な事柄を穿っていて、精神と心が統一された行動はそれ自体で尊いのである。妾と云う、近代化日本の途上を生きた、制限や束縛が多い下女に近い存在のお玉が、ここまで成長を遂げると思うと、この歳にして心が高鳴るのを感じた。

 二番目はお玉を中心に配された、前途洋々たる開明期明治日本の、純粋無垢の典型たる美青年たる岡田と、冷徹な計算に闌けた金貸し末造と云う典型的な三角関係から、安易な人物造形をしなかった点である。お玉の人物描写も優れているが、今回読んで得に感じたのは末造の内面描写にかなりの行数が割かれていた点だろう。
 金貸し末造とは誰なのか?人間的な情緒や感情を解せぬわけではないが、全てを損得勘定の町人的倫理観を優先させぬことには、そこに倫理観に悖るとまで慣習化し習慣化された町人精神の権化のような存在に、経済的な余裕も加わって女性としての魅力と云う領域に初めて目を見開かされる。世知に闌けた男の純情?が実によく描けている。単なる物貸しロボットととして自己規定した男の、人間性に次第に潤いを恢復させていくらしい描写に納得させられる。しかし末造とは誰なのか?
 これは開化期をエリート官僚として生きた森鷗外のことなのである。金貸し稼業が汚らわしいように、立身出世と家門を立てることを優先させ己を立てることを潔しとはしなかった鷗外とその門閥の喩えなのである。彼がお玉を「ものにする」過程は、若き日の鷗外がドイツでエリスと結んだ関係が幾分かは木魂しているに違いない。

 それにしても、ヒロインお玉の描写は優れている。恋や愛を歯牙にもかけぬエリート官僚として生きて来た鷗外にどうしてこうも女を魅力的に描けるのだろうか。確かに森まゆみ氏が言うように鷗外は恋を知っていた!どこで知ったのか?それは私には分からぬ。(森まゆみ氏の「無縁坂の女 玉とせき」はひとつの見識だろう。)

 お玉が初めて岡田を見初める場面を引いておこう。

 竪に竹を打ち付けて、横にに二段ばかり細かく削った木を渡して、それを蔓で巻いた肘掛窓る。その窓の障子が一尺ばかりあいていて、卵の殻を伏せた万年青の鉢が見えている。(注略)
 そしてちょうど真ん前に来たときに、意外にも万年青の鉢の上の、いままで鼠色の闇にとざされていた背景から、白い顔が浮き出した。しかもその顔が岡田を見てほほえんでいるのであった。(中略)
 ある夕方例の窓の前を通るとき、無意識に帽を脱いで礼をした。そのときほの白い女の顔がさっと赤く染まって、寂しいほほえみの顔がはなやかな笑顔になった。それからは岡田はきまって窓の女に礼をして通る。
 そしてちょうど真ン前に来たときに、意外にも万年青の鉢の上の、いままで鼠色の闇にとざされていた背景から、白い顔が浮き出した。しかもその顔が岡田を見てほほえんでいるのであった。(中略)
 二週間もたったころであったか、ある夕方例の窓の前を通るとき、無意識に帽をぬいで礼をした。そのときほの白い女の顔がさっと赤く染まって、寂しいほほえみの顔がはなやかな笑顔になった。それからは岡田はきまって窓の女に礼をして通る。
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