アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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一葉とわたし アリアドネ・アーカイブスより

一葉とわたし
2015-06-29 00:33:32
テーマ:文学と思想


http://tokyozigzag.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_7fe/tokyozigzag/002.jpg?c=a1
東京じぐざぐウォークから借用しています。

・ さして昔のことでもないのに何か講演会のようなものがあって、それを聴くために本郷の東大のどこかを訪ねた折に、普通に行っては詰まらないからと、手前の後楽園で地下鉄を降りると白山通りを北へしばし歩いた。
 大体の見当は分かっているので、前日に地図をみて確認したことでもあるし、簡単に考えて白山通りのとあるところから坂道を登ることにした。
 とあるところ、とは、改装なったビルの一階に樋口一葉終焉の地とある石碑がある白山の通りに面したところのことである。いきなり樋口一葉の名前が出てきたので少なからず途惑った。この奇遇をきっかけとして、このままいつまでも白山通りを歩くわけにもいかないから、大体の見当を付けて山手に入ることにしたのである。
 ところが西片と云うところは、地図で見るとさして広くもない区域であるのに同じような家並みが連なり、迷路のように細い路地状の道は曲がりくねって緩やかな暖勾配の登り降りを繰り返し、しばらく歩くにつれて方向感覚を失った。その日は曇っていたので太陽の方位も定かならず見当を付けることが出来ない。ちょうど小さな公園があってそこで一息入れ、休憩がてら習い始めた太極拳の所作の訓練をし、気を取り直して歩いていったら、本郷まではひとつながりの大地とばかり思っていた台地が途切れて、谷をまたぐ小さなコンクリート製の陸橋が掛かっていた。なにか如何にも異界に誘う結界の徴であるようにも思われたのである。
 この橋が一葉在世の当時は木橋で、一葉が下を潜り抜けて歩いたことは愛好家の間では知られているそうである。橋下を潜る通りはそのまま南西へ降れば先の白山通りにつながるし、反対側に北東方向へ登って行けば言問通りに連絡している。かって一葉は上野の図書館に通ったと云うことであるから、根津の方から歩いて来れば自然とこの橋の下を潜るか、するわけである。明治年間の当時は、橋の上えを通りかかった学生たちのグループが欄干から身を乗り出して、きみ、こっちを向き給え、と冷やかしを受けたのだそうである。
 鏑木清方描くところの小柄であっても凛としたところのある一葉には近づきがたいところがあったと思われるが、離れてみれば普通の娘さんの面影と見えたのでもあろう。いっぽう、一葉はひどい近眼であったらしいので冷かす相手の顔もようは見えなかっただろう。なにか見下したような感想を日記に書いているそうだが、元来が若い人が好きな一葉にしてみれば、まんざらではなかったのではなかろうか。
 いったいに一葉は自分を醜い女のように言っているけれども、謙遜もあったろうし、身なりやそのほかの事で種々の劣等感もあったであろう。彼女の外見については、例の半井桃水の酷評が有名であるけれども、なにも此処まで言わなくてもとと思うけれども、二人のあらぬ仲を疑われた韜晦、自己防衛反応が働いた、と考えた方が自然だろう。そのほかにも一葉をめぐる人々には、何か共通の不文律のようなものがあって、美辞麗句称賛の回顧録が多い割には、彼女のかたちの美しさについては一様に口をつぐむ、と云うのは古い明治人の思いやりでもあったのだろうか。(有力な後ろ盾となる縁者もなければ資産もない、そのうえ男手を欠いた没落士族の娘が細腕に頼りつつ手内職と文筆で懸命に支え、その苦しい過程で多少自分の美貌を利用して抜け目なく生きたとしても、そのことは抜き出して語ってはならないのである。)
 この他にも、彼女の周囲には霊力と云うのか後光と云うのか、あからさまには語られない彼女の雰囲気と云うものを伝えていて、容易には全体像を知ることが出来ないし、知ることもまた死者の荘厳の前では無意味であると観念せるようなものが当時も今もあるように思うがいかがだろうか。彼女のこの世の惜別のあとは、なにか残されたものへの遺言と云うか追憶と云うものがあって、良い意味での頸木、まさに日本人が失いつつあるものがあって、それを守り抜かなければならないと云う想いが、一葉を見送った人々の面ざしからは一様に感じられて、没後の一葉の文学を特徴づけるとともに、遥か昔の明治人の面影を今日までも懐かしいものとしているのである。
 この日は興が嵩ずるままに帰り道もまた後楽園か春日まで歩くことにした。赤門に前を西へ横断歩道を渡ると真正面に相対するように法真寺、「桜木の宿」の一葉ゆかりの案内板に突き当たった。交通事故で云う追突、の感じである。寺は工事中で趣きはなかったが、はっきりと一葉が追いかけてくると云う意識を初めて持った。
 本郷三丁目まで降り、菊坂と云う名前の美しさに魅かれて降っていく。降りきって三叉路に立つと、今日の朝往くときに見たあの陸橋の姿が再び姿をあらわした。待ち伏せていたなとこの時は思った。そして何の気なしに振り返ると、通り過ぎた時には気がつかなかった土蔵がある由緒ありげな江戸風の既視感溢れる建築が聳えるように左手にあって、質屋・伊勢屋の旧跡であることを示す説明板がある、来るときに西片で一時道に迷った時、一葉の旧跡の保存を訴える掲示板を見たことを改めて思い出した。導火線は引かれていたのである。あの時は樋口一葉のことなどは意識の彼方で、旧伊勢屋がどこにあろうかとも、考えもしなかったのである。
 誘導されるかのように、もう一度菊坂を三丁目の方に引き返すことにした。と、坂の中途の由緒ありげな木造下見板の灰色の建物のところにちょうど石段が十段ほどあって、そこを降りると菊坂に並行してもう一本の路地が潜むように一本通っている。人通りは絶えてない。
 三叉路になっている路地に佇んで、さて、どちらに行こうかと考えていたら、右手に煙突のある古い銭湯が隠れるように建っている路地があり、しばし時代感覚を失って恍惚となった。
 銭湯の営業時間などを書いた硝子戸の記事の子細を読みながら後戻りしかかると、いつの間にか前を高砂に出てくるような老婆が歩いている。こちらを振り向いて詫びるように目礼と云うのか挨拶の仕方をする。つられるように、もと来た三叉路をそのまま高砂のお婆さんについていくと、こちらからは見えない、あるとも思えない右手の路地から若者が二人出てきて、彼らの往く方にわたしも通り過ぎていこうとした。
 通り過ぎようとして気になる風景が脳裏を逆戻しのフィルムのように流れて、それが気になって若者たちが出てきた路地の前まで引き戻された。既視感のある思わせぶりの懐かしい路地の風景、右手に手押しのポンプがあり、突き当りは三階建ての木造の建物が向き合うように、その間を階段が登っている。感性的確信がさきに到来し、後追いで一葉の旧跡・菊坂の家であることを知性が確認した。もちろんこのころは菊坂と云う名前も知らなかったのである。
 こうして思いだせば、北の小石川、伝通寺から団子坂、東の暗闇坂から池之端千駄木、根津、谷中、日暮里、近縁歩いたところがまるで磁石が一定の方向を示すように、等しく一葉の方向を指し示していた。南の湯島から、旧黒門町、上野、広小路も、言わずと知れた樋口一葉の世界である。
 本郷の東大を囲繞するかのように何処も此処も一葉づくしで、時を経て目を閉じて考えると煌めきゆく星座が文教の周辺を拡大しつつ覆っているのだった。かかる汎一葉経験が機縁となって、ついに三ノ輪・竜泉の樋口一葉記念館を訪れることになったのだが、そこで少々暇はあるかと、とある文芸ボランティアの方に尋ねられ、わたしはわたしで問わず語りに、ここ数日間の奇妙な因縁を話すと、あなたは一葉の霊に気に入られたのかもしれない、とのたまわれた。
 なにか泉鏡花の物言いのようではないか。にわかに背中の汗が急速に引いていくのを感じた。

 陽が急に陰って来た。先に立って足音もなく案内される女性の顔は陰ってこちらからは見えない。あなた、と背中の能衣装が云う。一葉を理解するためには、崖下の家、と云うことの意味を考えることが大事なのですよ、と。その後ろ姿は橋掛かりを抜ける風のように遠ざかっていくシテの白足袋のかるみを思わせた。
 そう云えば、菊坂の跡地は以前は川が流れていたかもしれない、山と山の間の陽が射さない細長い窪地の一角である。ふるい銭湯があるのも理由があったのである。終焉の地、白山通りの丸山福山町も、広くこの地域を本郷台と一括した場合の丘の斜面の断層から清水が滲み出てくる崖下の湿った土地だった。そこは鰻屋の別宅で小さいながらも池があり、一葉は自嘲して、水の上の家と呼んでいた由である。水の上に浮かぶ一葉の蓮華の家とでも云いたかったのだろうか。紅蓮の炎の上に浮かぶ蓮華の華にもみずからの越し方にも譬えて。
 菊坂の家に対しては本郷台にある前田家・赤門と東京大学が聳える権威と権力の象徴として、崖下の丸山福山町に対してはかっての阿部家をはじめとする親藩諸藩の屋敷跡が、地形上に見えるこの極端な落差は何か。樋口一葉を考える場合は、崖下の家ということが大事なのですよ、と云う三ノ輪の巫女の言葉が甦る。