アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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一葉『にごりえ』 アリアドネ・アーカイブスより

一葉『にごりえ
2015-06-30 01:23:09
テーマ:文学と思想


・ 『にごりえ』はとある場末の一人の酌婦の物語といってよいだろうか。正式の遊郭を名乗ることはできないので、酒瓶などを並べて居酒屋か料亭のようなふうを装っているが、みんな知っているのでそれなりの客しか来ない。そんな遊郭に流れ着いたお力と云う酌婦がいて、最後は情にほだされたのか心中に巻き込まれてしまう、と云う、無常観ただようお話である。
 心中が合意のものであったのか無理心中であったのかは、一葉は客観的な証拠を示して叙述しながらもわざと曖昧なまま筆をおいている。

 この心中話の要因には経済的なものと倫理に関わるものと、二つの背景が描かれている。
 ひとつは、建前はどうであろうとも、金銭の論理が全てに卓越すると云う社会の仕組みが、女をお金で買う酌婦と女郎の世界に於いて、ある種、典型的に鋭利な現象として現れると云うことだろう。
 酌婦お力は界隈では名が知れた売れっ子芸者であり、金の切れ目が縁の切れ目であると云う共同体の掟を半ば象徴的に体現しているかの生き方をしているようにもみえる。
 しかし、他方に於いて、冒頭直ぐに、お力の相棒の小高と云う芸者が、お力の美貌に入れあげて身上を潰した贔屓あった男の零落した姿を話題にするように、なんぼ芸者と云えども千回に一度くらいは血の流れた人間として考え行動することを、秘かに自分たちの職業倫理――などと云えば堅苦しいけれども、共同体としての掟のようなものとして秘かに信奉しているらしいことである。
 分かりやすく言えば、金がモノを云う世界であるがゆえにこそ、金銭ぬきに死んでくれる殉教者を自分たちの代表として手前勝手にも待ち望んでいると云う、祝祭としての共同体の供儀と行事が前提とされている点である。
 だから、お力はかりに無理心中の結果、元の贔屓である源七に殺されたのであったとしても、本当に二人を死に追いやったのは共同体の論理と倫理であると考えてよいのである。

 ところでスケープゴートになるのにも条件があって、『別れ道』に描かれたお京や吉のような人間像はなりたくてもなることが出来ない。なぜなら二人は社会の最底辺に生きるどん詰まりであるからなのだ。
 『にごりえ』に描かれる二人の主人公、源七とお力は、前者は裕福な商人の出であるし、後者は祖父が誇り高い学者の家系で父の代に零落し、父親はメイ人気質の飾り職人となり、――と云うことは気位ばかり高くて生活力のない名人気質の・・・、ということになるのだが――苦労の末に若くして早世した両親に残されたお力は、命運の偶然にもてあそばれるように愛と情けを売る情婦の世界にたどり着いた、と云う大体の筋書きが読み取れるのである。
 つまり、共同体の祭りの犠牲の供物として供えられるにしても、潜在的に身分のある程度の高さと云うことがなければ他に卓越して一般の同情をかうことはできない、と云うわけである。
 こんなことを書けば、せっかくの情緒纏綿とした源氏物語風の明治の優雅な風俗物語のひとこまに対して水を差すように思うのだけれども、最晩年に遭遇する一葉をめぐる明治の知識人群像の掉尾、斎藤緑雨の、――一葉の諸作は、冷笑をへたのちの哀切」――正確な引用ではないが、かかる斎藤の批評がいたく一葉自身に感銘を与えたことからすれば、これは言っておかなければならないのである。

 従来、『にごりえ』の評価をめぐっては、名作『たけくらべ』とならぶ傑作と評することが多いようであるが、その順位は首肯するにしても、人情話として良くできているからと考えることはできない。
 たしかに『にごりえ』を人情話として読む場合、人物造形にしても物語のもって行き方にしても、ある種の老成と云うか物語作者としての完成の域を予想させはする。はたして二十歳をいくらも過ぎていない未婚の女性がこれを書いたのかと、驚くこともできよう。しかし、そうではないのである。
 『にごりえ』の一番よく書けている場面は二つあって、一つは七節の、源七とお初の貧困極まった家庭の荒廃を描いた場面であることは誰もが首肯しよう。そしてもう一つは、これと関係するが、お力とパトロンの結城朝乃助と二階の座敷から、源七とお初の間にできた太吉と云う少年をそれとなく眺める場面である。
 好いた惚れたとか、好きな女が自由にならないとかの愛欲の理由ではなく、実はこの場面が芸者お力の子供の世界に向けた視線の優しさが最後の心中事件と無関係ではなかった事を理解する大事な伏線になっているのである。
 かかる事情は、心中の相手・源七についても同様であって、彼を死に追いやるものもまた、女房お初から理詰めの難詰を受け、離婚を結果的に強いられたと云うことよりも、一人息子を妻に奪われたと云う喪失感にあった、と云うことも小説には正確に書かれている。
 つまり『にごりえ』と云う血腥い愛欲の世界を取りしきっているのは、一葉の子供の世界に向けた眼差しの豊かさなのである。分かりやすい言い方をすれば、お力にとっては、自分が源七の一家を破滅させ、そしてそのことよりも一家の子供から幸せであることの権利を奪ったと云うことが、最も彼女にとっては効いているのである。
 この小説には同節の終わりの方に、樋口一葉の生涯を締めくくる結句、彼女の生きてきた人生観と世界観を凝縮したかと思われる素晴らしい言葉が、作中人物お初の口から出てくる、――どんなに貧しくとも二親そろった子は長者の暮らしっていいますよ。」
 こういうことが云える女に、お力も源七も適うわけがないのである。お初と云う古女房の造形力の確かさはいままでの一葉の世界にはなかったものである。

 『にごりえ』の世界は、情緒纏綿たる優美な文語体に騙されて、近松の心中もののように読んではいけないと思う。たしかに、その方面での格調と完成度を備えてはいる。そのように読んでも十分に文学を堪能したと云う気分にはなる。しかし従来の読み方は樋口一葉を読みそこなっていたのではないのか。
 『たけくらべ』に描かれた竜泉の時代は一葉に画期をもたらした。それは子供の固有さの世界である。一個のの生命である子供の無防備とも云える実存を軸として世界の重みとして対抗しようと云う、途方もない思想家樋口一葉の発想である。
 第六節には、結城朝乃助の執拗とも云える身上調査の結果の果てに、遂にお力は自らの秘密を明かす場面がある。三代に渡る親子の負の連鎖と運命、そしてなけなしのお金を握りしめてお米を買いに行った幼い娘が帰り道に米をざるごと溝にこぼしてしまう話、これなどもドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のイワンの有名な告白を彷彿とさせる場面なと等価なのである。――例え神が何千万の民をお救いになろうとも、一個の乳飲み子の無惨な死に替えることはできない、とロシアの文豪は書いたのではなかったか。
 一葉とロシアの文豪の関係は実証することは困難かもしれないが、もしかしたら『文学界』の青年たちとの会話を通して、耳知識として間接的に学んだのであるかもしれない。
 一葉はどこでかかる子供を見る眼差しを学んだのであろうか。竜泉時代に鍵があると思われるけれども、いまは実証することができない。駄菓子屋の世界で、一銭二銭と云う子供相手の商いをとおして子供の世界の固有さを学んだのだと思う。
 思えば、お初が口にした――両親揃えば長者の暮らし、とは、一葉にとって思い出の「桜木の宿」の時代を彷彿とさせる至福の時間だったであろう。生涯の終わりに、死んでも悔いることはないと云う価値を、樋口一葉は見出したのである。

 ほかの一葉の作品もそうであるが、親の心子知らずとばかり思ってきたのだが、むしろ子供の健気さにうたれた。
 『たけくらべ』、『にごりえ』は勿論のこと、『大つごもり』、『十三夜』、『別れ道』など、子供の世界に向けた一葉の眼差しを無視しては読解が出来ない。
 無一物で愛欲の世界に浮き沈みするほかはない酌婦や芸者の世界、そしてその延長にそれ以上に徹底的に無防備で受け身の存在としてあるほかはない子供の世界との遭遇をとおして、徐々に自らの聖なる土地としての幼年時代を発見していった原点回帰、一葉の足取りをいま朧げに想像することができる。