アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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樋口一葉日記――「身のふる衣」、「若葉かげ」 アリアドネ・アーカイブスより

樋口一葉日記――「身のふる衣」、「若葉かげ」
2015-07-12 19:01:47
テーマ:文学と思想

 

・ 樋口一葉日記は、読みようによっては小説のように面白い。如何に小説が巧みの書き手であっても、一葉その人に似た人物、一葉を代弁する人物を主人公として描かれた小説は端的にはないのであるから、一葉日記をして明治二十年からその死によって終結する二十九年に至る、明治中期の激動の歴史を背景に、登場人物数百人を擁する、下級武家階級の没落とともに生きた一人の女の歴史小説と云う風に読めば、大長編を苦手としたわが国の近代文学に於いて、特異な金字塔の位置を占めるのではないかと思わせるものがある。
 気がついたことを、幾つかかいておく。

 一番目は、巻頭に置かれた「身のふる衣」と「若葉かげ」である。大長編の序論として観る場合に、二編は実に相応しい。
 「身のふる衣」は、幸せだった両親と過ごした本郷五丁目、東大赤門前・法真寺の傍らを人手に譲って、西黒門町に、それでも健在だった両親と過ごした時代である。
 この時代の出来事は、勉学に熱心な父親を持ちながら母親の反対にあって学校を中途でよして、それでも和漢を学ばせたいと云う父親の意志を通じて、中島歌子の私塾に通うことになる、長い「萩の舎」との付き合いになることの始まりの場面を描いたところである。
 萩の舎には初歌会と云う月例会があって、歳の初めの十五日の日付でもって始まる一葉日記の劈頭の記事はその年初めての歌会の記事である。歌会と云っても、会員が華族や貴族の子女たちを会員として擁するハイソサエティの集まりなのであるから、お嬢さんたちの話題は当日の歌会に何を着ていくか、と云うことで持ちきりで自然と華やかに盛り上がる。
 貧しい当時十六歳の一葉には晴着と云うものがない。ひとり沈んでいる一葉に声をかけるものがいて、あなたが縹色裏の着物をお召なら、私もそのように、と言ってくれる、一葉は有難さに涙がこぼれるほどであった、と書いている。
 さて、家に帰ると父親が見せるものがあると云って、古びた緞子の帯と八丈の着物を一式どこからともなく手に入れてくれていた。母親はそれでも士族の出であるから初歌会と云うものがどのようなものかを知っているので、恥かしいことと思って歌会への出席を止めさせようとする。一葉は両親の間でどうしていいか分からなくなる。それでも出ることにしたのはそれと書いてはないけれども父親の心づくしが嬉しかったのだと思う。この日の事は一枚の、お姫様や上流の令嬢たちに立ち混じって写された記念写真に、丈の合わない着物の袂を気にしながら消え入るような気持ち打ち消すように、凛とした姿勢で映った一枚の記念写真に一葉の記念碑的よすがが伝え残されている。
 歌会の評点は、新参の一葉が最高点であった。

 この段は、春の小石川植物園の花見の場面で閉じられている。植物園に行くのに、近道をしようと伝通院と云う寺の墓地を突破しようとするのだが、そこには段差があったり丸木橋があったりで、それは嬢様方のアドヴェンチュアーは賑やかだったであろうと想像される。本当は『たけくらべ』の美登利のように勝気なところを隠している一葉は段差をひらりと乗り越えて、あら、平家物語の一の谷のひよどり越えのようだ、一団が大はしゃぎになる、そんなことが書いてある。

「若葉かげ」はそれから四年後のやはり春は花四月の出来事が書いてある。貧しさの中で手内職や家事でつい屋外に出るのが億劫になっている妹を励ますように隅田川に連れ出す。行く途中で昔住んでいた西黒門町の町の面影の変貌などが姉妹の話題になり、父親が亡くなっていることが明らかになる。
 そのご向島に住んでいる、萩の舎の門人である吉田かとり子と云うご令嬢の邸宅で催された歌会の模様が描かれる。天気も良く、広大な隅田川ではボートレースが華麗に催され花見に更なる花を添える。歓花の華麗さにもまして姫君や令嬢たちの衣装の豪華さもまた話題になったであろう。着飾った姫君たちが花を求めて群れを成して三々五々河畔を蝶のようにさまよう姿は、それだけでも巷間の話題になったであろう。もはやこの時期の一葉は服飾学を通じての階級間格差について書くことはない。才能があって芯をしっかり持っておればそんなことに揺らぐことはないのである。かかる生き方は一葉の終生を通じてこんご基底的のものとなるであろう。
 それよりも、長大な量の一葉日記の劈頭を飾る二つの段落を通じて鮮やかに対比的に描かれているのは、樋口家の零落の現実と、絵巻物のように絢爛とした明治の豪華な花見絵巻である。

 最後の段落には、半井桃水との出会いの事が長く書かれている。世を半ば憚るように裏通りに住まいする男やもめの所帯にうら若き娘がひとり単身自分を売り込むようにして乗り込んでいく。果敢と云うべきか、この辺は、通常一葉が外目に演出して見せている我々が描く一葉像とは正反対のものがある。
 さて、一葉の目に映った桃水の印象であるが、――
「色いと良く面おだやかに少し笑み給へるさま誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆれ。丈は世の人にすぐれて高く、肉豊かにこえ給えばまことに見上げる様になん。」
 源氏物語を彷彿とさせる蛇体のように曲がりくねった主客と段落が不分明な文語的朦朧体で描かれる半井桃水像は、ほとんど絶賛に近い!
 さらに別の日に訪れると、桃水は少し特殊な話があるのだと脇に呼んで、
「余やいまだ老い果てたる男子(おのこ)にもあらず、君は妙齢の女子なるを交際の具合甚だよろしからずと、君真に迷惑気にの給う、さもこそあれとかねて思えばおもて火の様に成りておのが手の置場もなく口恥かわしきをもておほはれたり。」
 このような形の愛の告白もあり得たのか、と感心した。色男の最高度に様式化された口説きの台詞である。