アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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樋口一葉、子供の宇宙 その一 アリアドネ・アーカイブスより

樋口一葉、子供の宇宙 その一
2015-07-13 21:46:34
テーマ:文学と思想

 

・ 一葉日記の最後の方を読んでいたら最後の方に、樋口勘次郎と云う高等師範卒業生の手紙が来て、一葉が会ってみると云う場面があります。この出来事は明治二十九年の六月十七日以降の出来事であるので、一葉が自らの死期を察知し始めていた特別な時期に当たります。会ってみるとさほどのことはなくて、それでも何度か律義に上京してくるとこの青年の懇願を受け入れるように会ってやる様子が日記には描かれています。察しの良い読者なら最初から分かっていたことですが、結局は異性としての一葉に恋慕していたのです。一葉ほどもののが、とは思うものの、彼が持ちだした理由と云うのが、子供たちのための教科書改良の目的であると云うことが書いてあり、こう書かれると利害ぬきに一葉としては何か心に引っかかるものがあったのだろうと思います。
 父の希望もあって学校で勉学を続けたいと願いながらも、母の助言や家庭の事情もあって小学校を中途で辞めざるをえなかったと云う思いがやはり記憶の奥底に低く揺曳していたのではないかと思うのです。

お話しようと云うのは表題のとおりなのですが、さて、『たけくらべ』であればだれでも解ることです。『にごりえ』はどうでしょうか。
 芸者や芸妓といった上品なものではなく、酌婦と云うのでしょうか、場末の居酒屋のようなところに簡易の待合がくっついたようなところ、つまり、公娼とは言えない曖昧な不明朗な商売のひとつですね、そこの売れっ子酌婦が主人公なのですが、お力と云います。他方には、この女に貢いで家財を傾けてしまった男がいる、源七といいます。もう一人結城朝之助と云う旦那が途中から出てくるのですが、彼は、作者と読者の代理、一葉的世界への案内人のようなもので、川端の『雪国』の島村のようなもので一応無視してよいでしょう。
 話は複雑ではなくて、源七の家庭では良くできた女房がいてお初と云います。お初は諦念のなかにその日その日を送っているかに見えますが、何とかその日その日が立ちゆくような程度には持ち直せないか、口を極めてねんごろに日々説得をしているようです。このよくできた妻の控えめなところが余計に源七には辛く、耐えがたいのです。
 また、二人の間には一人の息子がいます。源七が通常の心中ものの男と違うのは子煩悩であるらしいことです。ここのところを押さえておかないと『にごりえ』はなかなか結末部分に関して理解しがたい不全感が残ると思うのです。
 一方は零落の果てにその日その日の生活の糧にも欠きそうになる源七の家庭があり、他方には、売れっ子の酌婦として、蝶よ花よと持て囃されるお力の世界がある。最近のお力には結城朝之助と云う資産家の後見がえられそうな雰囲気でもある。経済力に加えて結城の男ぶりが良いので、虚無的な人生観を持っていたお力にも変化が現れるのかもしれないと思われたやさき、心中事件が起きて運び出された二つのお棺は二人のものだった、と云うのである。合意だったのか無理のものだったのか、一葉の説明は曖昧である。何といっても袈裟懸けに切られているので、合意心中ではないだろうと云うのが大方の雀どもの意見です。
 
 一葉が凄いと思わせるのは、綿々と悲劇的状況に追い込まれていく二人を描きながら、最後の心中のくだりでは、あっさりと二人から固有名詞を奪って、唐突に別々に運び出された二つのお棺の描写で筆を置いていることです。無常感極まる筆致の極限と云っても良いでしょう。
 さて、心中事件の直前にはカステラ事件と云うのがあって、何でも源七の息子が、当時は高級菓子であったろうカステラを貰ってくるところから始まります。何でも口にするのすら憚られるお力と見知らぬ旦那に抱きかかえるように連れられて行って買ってくれたのだと云う。普通のお菓子であれば、日ごろから両親の態度から子供にも分かっていたはずだが、彼らの生活水準とは余りにもかけ離れていたがゆえに、子供としても判断力を取り落としてしまったのだろう。
 まるで宝物でも発見したように勇んで子供は帰って来る。お初は贈り主が誰であるかを聴くと、怒髪天を衝くと云うか、子供から奪うようにしてそれを庭に投げ捨ててしまう。カステラは箱が割れて中味は溝に落ちてしまう。それを傍で見ていた源七が、これもまた逆切れしてお初に離縁を言い渡す。お初も今までの源七とは何かが本質的に違う様だと気がついて、あわててしきりに詫びを入れるのだが、今度ばかりは許そうともしない。ここでも源七の過激な言動の引き金になっているのは子供に悲しい思いをさせたと云うどうにもならない悔しい思いなのである。さて、そこで家を出ていこうとするのだが、そこで子供に、お前はどうするのかと改めて聞く、すると母親の方に付いていくのだと云う。こうして源七はひとり家に取り残される。源七の自己破壊にも言動の背後にあるのは、愛欲ゆえの盲目というよりも、子供に悲しい思いをさせたと云う悔いなのである。この点を押さえて押さえておかないと、結末の唐突さが理解できなくなる。
 わたしの見解は心中事件の背景にあるのは、お力の虚無感や無常観にあるのでもなく、源七のお力への断ちがたい未練にあるのでもなく、ひとつの家族の崩壊が引き金になっている、という点指摘したい。
 さらに云うならば、人生の酸いも甘いも知りぬいたお力と云う女性に、生半可に感情的な理由に乗せられて心中事件に巻き込まれたとは思えないのである。やはり雀どもの云うように、それでやはり無理心中であったかと云えば、それにも賛成できなくて、お力の方においても、何とか維持していた平衡のバランスが傾くのは源七の家庭の崩壊を聴いてからだったと思う。
 色恋や愛欲感情などで気丈なお力が精神のバランスを失したとは思えない。結城と知り合った初めの頃に、二階の座敷から、ちょっと来てと呼んで、二人して往来で見かけた子供の影をそれとなく指し示す場面があるが、お力には、ずっと、この子から家庭の幸せを奪ってしまったと云うことが、許せないで来たのである。

従来から『にごりえ』に関して言われていることは、結末の唐突さ、である。酸いも甘いも知りぬいた苦労人のお力が感傷的な理由などに引き摺られるはずがないので、最後の悲劇的結末が余りにも意外に感じられるのである。
 しかし、ここに「子供の宇宙」と云う補助線を引いてみると、俄かにお初の、二親のある暮らしは長者の暮らし、と云う言葉が生きてくる。一葉に関していうならば、二親が揃っていた本郷は赤門前の「桜木の宿」の暮らしこそ、永劫において回帰すべき黄金に輝く最期の記憶であったはずだ。普通の家庭では当たり前のことだが、子供はそんな儚い思い出を抱いて、それをまるで宝物のように思って生涯を生きていくのである。二親ある暮らしは長者の暮らしと云う言葉はそれほどにも一葉にとって重かった、と云うべきなのである。
 お力は、二親ある暮らしを破壊したのである。

 以上、一葉と子供の宇宙と云うテーマで、従来の解釈からは死角になっているかに思えた『にごりえ』を取り上げて、所感を述べてみたのである。
 そういえば、『大つごもり』にしても『十三夜』にしても、子役が大きな役割を果たしている。義理と人情の間で板挟みになった女中・お峰に最終的に、社会的な制裁を覚悟で盗むと云う行為を選び取らせるのは、背後にやはり子供の影がある。子供に悲しい思いをさせるほどならば自分が・・・と云う思いがお峰の乾坤一擲にはあったはずだ。ここでもお峰に家庭への思いを過剰に演出させるのは、自分を本当の子供のようにして育ててくれた伯父伯母への律義とも云える義理である。お峰が借りれたはずの二円のお金を貰いに来た子供が、実際の弟であったならばここまでは彼女を追い詰めなかっただろうとも思われる。
 『十三夜』では、婚家の閾を二度と踏むまいと固い決意をしたお関を翻意させたのは、父親の説得もあっただろうけれども、最終的には、何も知らないで寝かせてきた子供の寝顔なのであった、と思う。まあ、異論はあるだろうけれども読者様々、わたしは少なくともそう思う。
 最晩年の傑篇『別れ道』の主人公、お京は表情を持たないので特異なキャラクターであるが、斎藤緑雨の有名な、悲哀ののちの冷笑!が『にごりえ』ほどに該当するか、疑問である。斎藤の評価は一葉自身によって至言の言葉として首肯されたと云うのがもっぱらであるが、わたしなどは冷笑ののちの悲哀であると思っている。悲哀ののちの冷笑と云うことをどうしても云いたいのであれば『ゆく雲』などが該当すると思うが、緑雨の言説は一葉の意を迎えるためにとった戦略であって、作者が言ってほしいと感じていることと作品自体が意味しているものとは違う。むしろ晩年の一葉はかかる観照的態度を経ることによって『大つごもり』以下の奇跡の十四か月とも云われる一葉らしい世界に突入していくのであるから。

 『にごりえ』などにおいても、人生などこんなものと無常な人生観に達観していたはずのお力が、情死と云うもっとも人間的な死に方の形式を選ぶのも、悲哀と云う人間的な能力を次第に回復していった結果だと思えるのである。皮肉であるのは、お力が自らを思い出すかのように人間であろうとして原点に立ち返ったとき、実際にはそれが世俗としての自らの死を結果として意味するほかはなかったと云う意味で、一葉最晩年の世界は無常感が深いのである。