アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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一葉と鏡花、鏡花の手紙から アリアドネ・アーカイブスより

一葉と鏡花、鏡花の手紙から
2015-07-23 12:49:54
テーマ:文学と思想

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 一葉日記などを読んでみても鏡花に関する記述は皆無である。博文館の編集人、大橋音羽の見識は二人の資質を見抜いていたが、肝心の二人に客観的資料が欠けている。二人の才能の質を鑑みるに意図的な散逸と云う想像すら逞しくしがちなのであるが、大方は思惟や想像にばかり任せてはいけないことから、鏡花は一葉の関心をひかなかったのだろうと考えている向きがある。
 ところがここに、鏡花が一葉に宛てた手紙と云うのが二三あって、それが時候挨拶のようなものであれば良かったのだが、前後の関連が書かれていないところからなんとも意味不明で、想像に頼るほかはない。意味は分からないけれども話されている内容は、いちげんの客のすれ違いとは思えないほどの情感のしめりを含んだ文章になっている。
 そのなかの手紙の中のひとつ、書き出しはこうである。

 拝啓特に御婦人という心にはかきにくく候ままこれは男ともだちなみに書いた手紙のござ候そのおつもりにてご覧くださるべく候昨日桐生にあひ候ついで何のきなしにあのことはなし候ところが始めのうちは変な顔をいたしおり候ひしがついに腹を立ち申候きみと僕とはともだちなりあちらと君は知り合いならむが僕には一面識もなきものを書生一人世話せよとは何から起こったはなしか知らずそれとも僕が有力なるより困って居るのを養わずというならばまだしもなり学資には不自由なし下宿屋では不都合ゆえとはあまりに見くびったいひ分なりと散々にござ候実際樋口さんわるいのなら桐生に対して僕が済まず桐生の聞きようがわるいのならばつまりいいようがわるかったので僕があなたに対して済まずこのところなまけもの大弱りに候しかし気にかけてくださるましく小生の届からざりしだん一方はあなたに向かひておわび申上げ候まま桐生にとおなざしにあいなりたる其のことのおこりも候はば頼むという人のおなまえとともにソト小生にまでおんふくめ下され度詮ずる処無根のことをあなたか僕かが捏造してからかったとのわるく受けとったことと存ぜられ候へばちょいとおへんじ降され度候
 さてちょいとあそびに来たまわずや小杉がいなくて淋しく候此方からは参るけれど参った日を覚えて居るほど遠慮いたしおり候何をいふうにも女のかたには不自由なるにつけ樋口さんがそれでいて男だったらどんなにかいいだろうといつでもそう思い候コンナこといってあげていいのかわるいのか僕にもわからずいいようにきいてあしからずお思いとり下され度候いずれそうち 不備
五月六日
泉鏡太郎
おなつ様

 鏡花の研究者は知らず、一見してラブレターであることは明らかであろう。前段と後段に二度繰り返される、男なりせば、との文言は、若き日の一葉をぐうした半井桃水の文言を踏まえたパロディーであることまでは言いすぎだろうか。
 鏡花はこの文言の譬えがなにを意味するか、桃水と一葉の出会いがほの秘めた時間の華を踏まえてかかる文言が一葉にとって殺し文句であることを知って使っているのである。文学者同士のやり取りは、たとえそれが個人的でプライベートなものであっても、いなあればあるほど、互いがお互いの作品を十分に読みこんだうえでの文芸批評でもあること、文学論と恋愛論が一如になったものであることにこころすべきである。愛は文学論として語られた時効果を発揮することは洋の東西を問わず、アベラールとエロイーズの書簡集などのページを捲ってもことは明らかだろう。
 またこの手紙が語っているのは、向こう(桐生悠々)は「知り合い」だけれども、一葉と鏡花の関係は「ともだちなり」と書く、馴れ馴れしさを一葉が許容していたかのようにも読める点である。一葉の関心が低かったとは言えないだろう。様々な事情があったと思われるが、この時期一葉に結核の自覚症状は濃厚にあったはずで、二人の共通する文学の質の類似性を考えても、あらたに項目を挙げて鏡花と語る、改めて固有の文学を語るなど、その段ではなかったというのが実情ではあるまいか。
 一葉には晩年のわたしが好きな作品に『別れ道』と云うのがあって、この関係と鏡花の手紙の関係が実によく似ているのである。お互いに頼るもののない孤児の二人がこころを通わせる儚いエピソードであるが、弟分の傘屋の吉と呼ばれる少年の饒舌な語りで終始するこのお話では、相手方のお京の表情が少しも読み取れない。無表情と云うか、表情を消しているという感じが、実に一葉と鏡花の関係に似ているのである。まして二人はほぼ同年代で、おまけに鏡花にとって一葉は一年上のお姉さまときている。こうなればシチュエーションは泉鏡花の世界そのままではないか。
 想像を逞しくすれば、一葉は鏡花を憎からず思っていたはずで、いかんせん、他方の寿命はまさに尽きようとしていた。しかも一葉の他の朋友たちとは異なって、鏡花は新参者であり、一葉の生活上の不如意さとかその他の細々とした苦しい胸の内を知らなかった、知らされていなかった。そうした無邪気さはこの手紙からもうかがえるが、次の手紙――

(明治二十九年八月二十日樋口なつこ宛 はがき)
 医者がきらいだといふそんなわがままな御病気なれど実はお案事申候御容態いかがにや角の長屋の夫婦喧嘩はあのあくる日女房がでてゆき亭主がまた帰って来ずしめ出された親猫としめ込まれた子猫が二三疋一夜ギャッギャッとなき騒ぎ月番ぎょっといたし候ところあくる日亭主だけ帰りしが男ひとり手がまわらず棄てるほどに棄てるほどのに猫は一日とはおかず帰ってくる 不一

 さすがにこの頃ともなれば如何に呑気な傘屋の吉と云えども、一葉の病状がただならぬことは明らかだった。それでいままでの自分の迂闊さや不分明を言外に詫びるとともに、何を書いたら良いか分からないままに、いっけん無関係ともみえる近隣の夫婦げんかの話と飼い猫の一家の顛末を面白おかしく報告しているのである。健気にも鏡花は一葉を元気づけようとしているとみれば、なんとも悲しい手紙ではある。
 鏡花には初期の知られた作品として『照葉狂言』と云うのがあって、一葉の死と前後して書き継がれた小説である。
 奇妙なことに、『照葉狂言』のなかに二人の忘れがたいヒロインがいて、その一方は予感のなかに見捨てられていく悲運の旅芸人であるが、そのヒロイン小親もまた不治の病に侵されている。これを知りながら主人公は卑劣にも見捨てるのである。
 自分では友達のつもりでいても、なんにも自分には本当のことは知らされていなかったのだという無念が鏡花の手紙を読みながら感じることである。わたしのような文学の素人をもって任ずる場合は、実証的な資料に当たってみるまでもなく恣に作品のみを過剰に読みこんで突拍子もない結論を引き出してくる!素人の特権である。
 わたしは『照葉狂言』の小親と云う乙女が、一葉が似姿を映したという堅苦しい意味ではなく、泉鏡花の一葉を追想する想いのなかに描かれていた、とみるのである。
 樋口一葉と云う女性の美しさは、束の間の出会いであっても、たとえ無関係な行きずりの出会いであっても、なぜかわたしたちを良心の呵責にも似た悔悟と後悔の気持に引きずり込んでで責めさいなませる、こころ痛き思いでの美しさである。漱石の『三四郎』ではないけれども、かわいそうと思う心は恋の始まりである、とはよく言い得た登場人物佐々木の言い分であるが、この言葉がこの作品にあるがこそ、三四郎、の世界が一変するほどの驚愕を味わう、そんな過ぎし日の読書経験のことなどもも思い出されたのである。
かかる言葉があればこそ書かれているゆえにこそ漱石は流石に愛を知っていたなとと云う痛き思いとともに、比較される森鷗外の世界との違いもまた納得されるのである。さて、また話がそれてしまった。――

 明治三十三年の鏡花、「一葉の墓」と云う随筆は、さながら展墓の名手、鏡花ならではの哀惜と慕情に満ちた追悼譚である。一葉没後四年。
「門前に焼団子売る茶店もう、川の水も静かに、夏は葉柳の繁れる中に、車、時として馬車の並置かれたるも、此処ばかりは物寂びたり、・・・・・」ではじまる荘重な書き出しから、最後の、――

「ふり返る彼方の墓に、美しき小提灯の灯したるが供えありて、其の薄暗かりしかなたに、蝋燭のまたたく見えて、見好げなれば、いざ然るものあらばとて、此の辺に売る家ありやと、傍なる小童に尋ねしに、無し、あれなるは特に下町辺のものの何処よりか持て来りて、手向けて、今しがた帰りし、と謂いぬ。去年のはじめなりき、記すもよしなきことかな。漫歩(そぞろあるき)きのすさみなるを。」

 展墓の帰り道に、思い出尽きぬままに振り返りつつ、墓前に供えた灯篭が夕闇の空ににじり出てきて空高く、美しき人の面影を二つ、示現させる『縷紅新草』の最後の場面に反映しているといったら、思い込みも甚だしいと言われようか。
 一葉が鏡花についての所見を残さなかったのは、あるいは姉弟のようにていた文学の感性と質から見れば言わずもがなのことが多く、作品のなかにそれぞれが映した、あるいは反響を木魂させればよいことなのである。それを見抜けるかどうかは読者の見識なのである。

いのち尽きようとする樋口一葉と新進作家泉鏡花との乾坤一擲のすれ違い、まさにいずれが書いてもよさそうな居合抜きにも似た明治中期のいまだ未然の火花の出るようないち場面だったようにいま懐かしく思う。
 それにしても樋口おなつさま、あなたの面影は文学史上の樋口一葉よりも魅力的なお方です。『縷紅新草』のクライマックスではないけれども、胸倉に冷たき髪をおしつけて、なつかしい、ひなつちゃん、と言ってみたい!