アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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鏡花『照葉狂言』と『日本橋』 アリアドネ・アーカイブスより

鏡花『照葉狂言』と『日本橋
2015-07-24 07:00:57
テーマ:文学と思想

 

・ 『照葉狂言』というのは難しい、特に最終章「峰の堂」の解釈が。
 この小説は一葉の『たけくらべ』の延長線にあるある作品と云われ、子供の頃の世界の独自さと別れを描いた作品と一葉は言えるが、わたしには子供の世界の固有さが一葉と鏡花では違っていたように思われる。
 この小説は、ほかの鏡花のものでもそうだが、筋の組み立て方は簡単で、いっそ他愛ないとでもいえそうなのであるが、随所に鏡花のディテールが光っている。例えば旅芸人の一坐との出会いなどに於いても、本来的に日常性とは異なった世界を描く、初めて桟敷席に招待される場面の座布団の描写などは忘れがたい印象を残す。子供の世界と大人の世界の対立と云うよりも、両者を超えて日常性と非日常の対立のほうこそ鏡花にとっては本質的であったと思われ、少年時代の夢想が如何にして浸透し、現実的なものの感じ方や感性から鏡花を遮断していったかが描かれている。それが出来たのは叔母に育てられている両親を亡くした孤児と云う設定が、既にというか、元々家庭的なものが鏡花に於いては本質的な経験としてはなかったということではないかと思っている。他方、一葉の文学は文学としての設定では孤児を選んだ場合でもそうではなかった。
 さて、お話と云うのは、二人のヒロインが出てくる。旅芸人の小親と家の向い側のお姉さんお雪である。お雪は鏡花にとっては永遠の母なるものの代理であって、しかも継母によって虐待されているように設定されている。旅芸人の小親の方は、家庭経験と云うものを教えられなかった主人公貢が通いなれた旅の仮舞台に招待され、やがて叔母が賭博で検挙されると後見を失った貢を親ともなり姉ともなり拾ってくれるもう一人の鏡花的人物である。
 このお姉さま趣味は後年の『日本橋』においても清葉とお考と云う形で繰り返されることになるから、ほぼ鏡花的世界の原型が既に成立していたとみてよいだろう。
 貢は叔母の家の離散に伴旅芸人の一坐に拾われる。お雪もまた彼を庇護しようとするのだが、お雪と継母との関係を遠慮して旅芸人の一坐に一身を投じる。これが母なるものの代理であるお雪に対する裏切りの気持として残ることになる。お雪が貢にとって決定的な意味を持つのは、貢が母親を亡くしたとき、それを慮って好きな琴の演奏を辞めてしまったという話を後に聴いて、母親の面影を唯一この世に伝える形代のようなものとして尊敬している、ということになっている。
 さて、時は経めぐって旅の一坐が再び郷里に仮小屋を営むことになる。主人公俳優としてひとり立ちしている。噂を聞けば小雪は継母の長年のいじめだけではなく養子として受け入れた粗野な男との虐待にも耐えているという。よくよく話を探ってみると、その男の余りにも粗野な横暴さを見かねて今では継母その人がお雪に同情的になり、ある提案を貢に持ちかける。
 提案とは、その粗野な男が小親に執心しているらしいので、それを理由に彼女に誘惑して欲しいと云うのである。要するに不倫話を盾に男を葬り去ろうと云うのである。ここのところの貢の反応が何とも難解である。難解であるというのは、通常近代人であればここでかかる提案をめぐって良心と云うものに照らして心の逡巡があるはずだが、鏡花の世界ではそれが描かれていない。それに対する小親の反応の描写だけを通して、どうやら貢にとってだけ甚だ都合のよい提案を小親がどうやら受け入れ、受け入れはするものの余りの男の手前勝手さに、それではわたしはどうなってもいいのでしょうか、と泣きながら抗議する場面が付け加えるように描かれている。その段でやっと貢はことの在り様に気がついたようにもみえるのだが、さて、鏡花の反応の方もいまひとつ分からない。女からみれば随分身勝手な要求をどう感じたか、貢の心理もさりながら、より以上に分からないのは鏡花の場合である。むしろ愛の表現は自らを犠牲にしても相手に尽くすというのが鏡花の理想nセオリーなのであるから、小親の献身と犠牲は当然視されているかのようでもある。
 さて鏡花のセオリーは兎も角として、ここにきて小説的世界の貢は現実としてはどうしてよいか分からなくなる。そこで最終章の「峰の堂」の印象的な場面を迎えることになる。ここで鏡花が現実の世界との関係、現実の世界をどう考えていたかが露呈する。

 「峰の堂」はどうしてよいか優柔不断に陥った主人公が峰にあがって故郷の全容を改めて確認し、ある決断に達するまでのさ迷い歩きがテーマである。人は思い余ると高いところに登ってこれからの行く末を思案するものである。
 峰を登りきると御堂があって、松風の音とも松籟の響きとも聞こえた風に流れてくる微かなものの低き振動が実は御堂に籠った一座の謡いの声明であったことが明らかになる。一杯の茶を囲んで人気を断った峰の御堂のミステリアスな空間でかくなることもこの世にはあるものか、と貢にはある種の気づきが訪れることになる。つまりこの世とは異なった世界の秩序に思いをはせ、世俗の柵を捨て、それが命ずるものの論理に従おうと云うのである。
 家なき子である貢が幼少の頃より親しんだ、この世とは異なった世界がうち招く、ある決意、とは何か。小説の幕切れに於いても鏡花は例の詳細のみが異様に鮮明であるに反して意味が両義性のなかに揺蕩う玲瓏たる文語的文体に包まれて明瞭には貢の決意を描こうとはしない。ただ、分かるのは小親を捨てるらしいということ、それがお雪への思慕への忠誠のために、としか説明されていることしか分からない。それではお雪をあの横暴で粗野な男から解放すべく男らしい行為をとるのかと云うと、どうもそうは書いていない。このようななよなよとした明治期の三輪明広のような主人公の設定にかかる過激な行動を取らされることが現実的に可能であるわけではなく、ちょうど後年の『日本橋』において葛城が出奔し遁世の世界を選ぶことになるように、どうも鏡花的世界のものごとのけじめとしてのパターンからは最初からそうなるほかはないと云う気配なのである、残念であるが。
 結局、鏡花の小説が難しいのは、何が何でもと云うこの世の側の頑張りが無いということであろう。この世と異次元、異世界との関係はわたしたち近代人のものの考え方とは余程違っていて、この世の秩序などは取るに足りないと鏡花は考えていたようなのである。それでこの世を超える儀式として御堂の奥から風に流れてくる神韻縹渺の地謡の極めて印象的な場面が設定されることになる。
 能楽では主人公はシテとして何ものかに変貌するのだが、貢は何に変貌するのだろうか。小親を捨て永遠の姉上とも母の形代とも思ったお雪をも結果としては救うことが出来なかったので。ここでも近代人としての逡巡は描かれることはなく、――
 「山の端に歩み出でつ。
 と見れば明星、松の枝長くさす、北の天にきらめきて、またたき、またたき、またたきたる後、 拭(ぬぐ) うて取るよう白くなりて、しらじらと立つ霧のなかより、 麓(ふもと) の川見え、森の影見え、やがてわが小路ぞ見えたる。襟を正して 曰(いわ) く、聞け、 彼処(かしこ) にある者。わが心さだまりたり。いでさらば山を越えてわれ 行(ゆ) かむ。 慈(いつくし) み深かりし姉上、われはわが小親と別るるこの悲しさのそれをもて、救うことをなし得ざる姉上、姉上が楓のために陥りたまいしと聞く、その境遇に報い参らす。」

 つまり価値ある主人公の旅立ちには乙女の犠牲があると云う極めて男に都合のよい封建的論理と、通過儀礼としての少年期との決別が語られ、同時により踏み込んで日常的な世界を超えた異世界への逆転、貢の献身と云う芸術家としての自覚としてこの小説の結末はあるようなのだ。
 鏡花の世界は難しい。
 この結末が、後年の『日本橋』では次のように変化する。二人の女の間で身動きが出来なくなった貢の後身である葛城は、この世にはあらじと出奔する。ここまでは同じである。それでは風狂の僧として悟り得たかと云うとそうでもなくて、行きがかり上自らが過去に放置したこの世的世界の世界秩序の落とし前に立ち会わされる運命となる。毒を仰いで死につつあるお孝とは後の小親でもある。わたしはそれだけの存在ですか、と問いかけたあの旅芸人の女の哀切のことである。お考は鏡花的世界の幕引きを演じることで、主人公の葛城にこの世への復帰が不可能であるとともに、同時に『照葉狂言』とは逆の結論、お考と小親が重なり合ったダブるイメージとしての崇高な犠牲死ゆえに、母なるものなる世界への復帰も同時に不可能になる、という二重の意味における不可能、鏡花的形而上学的な世界の無惨なる顛末をも描くことになる。『照葉狂言』のように自分に都合よくは解決してはくれないのである。
 つまりこの世にもあの世にも、日常的世界にも非日常の世界にも行きえないと云うことは、芸術と云う世界に籠るほかはないと云う決意なのである。
 『照葉狂言』とはもしかしたら芸術家誕生を描いた芸術家小説であるのかもしれない。何となればこの結末は後年のジェイムズ・ジョイスの『若き日の芸術家の肖像』にとても似ているからである。ところで芸術家小説とはなにか。芸術と云う砦の籠って闘う芸術至上主義のことではない。到来しつつある近代と云うものを目前に控えて後進国の芸術家が、いまだ成立していない芸術と云う概念をたよりに、眼前の見えざる敵に対して身震いする、そう云う意味なのである。
 鏡花もジョイスも、地上的な秩序でもなく、秩序を超えた異次元でもなく、そうした対立的な世界観的構造とは異なった、言葉と感性の宇宙を成立させる使命の如きもののことだったのである。