アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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鏡花『夜行巡査』と『外科室』 アリアドネ・アーカイブスより

鏡花『夜行巡査』と『外科室』
2015-07-24 08:07:43
テーマ:文学と思想


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・ 近代と呼ばれる時代の人類史的な特殊さは、世界の多様性に準拠したそれぞれの地域におけるそれぞれの成熟と云う概念を一挙に崩壊させ、世界標準と云う坩堝に否応なしに巻き込んだ人類史上の類例のない経験だったからである。
 近代日本人の諸経験の特異性は、およそ近代化が避けて通れない道、歴史の必然と理解した点にある。およそ日本人にとって近代化が何を意味したかは、一方では富国強兵策であり、他方では近代の黎明が恋愛と云う形をとったことに、欧米には見ることのできない特殊なわがくに固有の様相がある、愛ゆえに死ぬこと、それは封建的遺制であるところの情死や忠君愛国のイデオロギーと紛らわしくも混淆しながら様々な形で展開を見ることになる。
 言うまでもなく、近代日本人として果敢にもこの問題と中心的に取組んだ一人に漱石があるが、鏡花もまた古めかしい擬古典的な外観にも関わらず文学的な出発点においては近代との遭遇と云いう事態に彼なりの形で応答していた。
 樋口一葉との関連で云えば、一葉と鏡花は文学や感受性の質に於いてかなりの部分が重なり合うけれども、一葉の江戸っ子ゆえの鷹揚さと開放性とは、地方出の鏡花とでは感覚的敏感さにおいて際立った対照をなしている。また近代的な学制や機構に取り込まれて生きざるを得なかった漱石や鷗外とも異なっている。興味深いのは現代から見て樋口一葉寺子屋式の教育が何ほどもものであったかを語る資料に成り得ると思うのだが、ここではここでの話題と関係しないので言わない。
 いっぽう鏡花や漱石にとって近代と云う時代経験は半ば不可避性を帯びた宿命の色を帯びつつあったが、一葉の学識経験からすれば近代が世界経験として宿命的であったかどうかは分からない。むしろ樋口一葉の時代経験は歌学を通じて広く、創作や日誌と云う経験において深かった。24歳で夭折した命運ゆえに彼女が近代と云う世界経験とどう向き合ったかは判然とはしないけれども、福山丸山町の時代を通じて、近代は必ずしもネガティーブな経験としてではなく清新な経験として流入しつつあった。
 『行く雲』と『たけくらべ』は諦念の美意識のなかにおいて己が経験を冷徹に見据えつつ語る。『別れ道』や『われから』は泉鏡花夏目漱石が描くことになる近代的新しき女の類型まではいま一歩だったと云う気がする。鏡花や後の彼の後見者と目される永井荷風が無意識の技として、あるいは意図的に経験を限定し、狭い世界に彼らの各々の美学を精緻な工芸品のように刻んで行ったことを考えると、それは明治十年代を生きる時代経験の差と、ひろく渉猟したの日本古典文学や漢学の素養と云う、わたしたちには次第に分かりにくくなっている感性の持ち方も関係していたのかもしれない。一葉の文学は難しいのである。
 ともあれ、鏡花は、樋口一葉であれば野暮としか思われない愚直さにおいて近代との出会いを直接的にかつ鮮明に語るところから文学的なスタートを切っていたのであった。
 

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 鏡花の『夜行巡査』や『外科室』などを読むと、泉鏡花が近代と云う事態をどのようにみていたかがわかる。前者に於いては風俗上よろしからぬと貧しい車引きの衣服の綻びを叱りつける夜間見回りの巡査であり、冬の寒空を避けるため他家の庇を借りて赤ん坊に父を含ませようとする若い母親を追い立てる無情なリゴリストである。さらには奇妙な偶然とでも言おうか、婚約を反対されている叔父と姪が登場し、巡査にとっては憎らしい伯父が酔って濠に落ちたのを、泳げぬのを承知で巡査の職務ゆえ飛び込んで自分も死んでしまうと云うもの、これでもかという感じです。後者においては、時期手遅れにならないうちに手術を受けさせようとされるある高貴な貴婦人が麻酔薬を処方されることを拒み続ける話である。何となれば貴婦人には執刀医高峰との間に、あろうことか過去に秘められた関係があり、睡眠薬を飲まされてはそのことを口走ることもあるやも知れず、秘密を守るために覚醒したまま胸の手術を受けなければならないのである。実際に手術は頑強な夫人の抵抗にあってあろうことかそのまま行われることになる。いまは是非もないと執刀医高峰のメスが貴婦人の胸に届いた瞬間を見て夫人は手を添えて自らを深くえぐり取り永遠のやすらぎを選択する。それを見た執刀医の高峰も夫人の死に殉じて自殺すると云うものである。
 まあ、これだけの話なのであるが、『外科室』では手術台での凄惨な場面もさりながら、過年における二人の小石川植物園での出会いの描写が何とも優雅で典雅である。まるでモネの印象派風の絵画を思い起こさせる日傘を持って夫人がお伴を引き連れて公園を歩いてくる。この場面の眩さの光源のようなものは今までの日本人の花鳥風月の感性にはなかったもので、この風景を描ければ十分とばかりに鏡花は具体的には何があったのかは描こうとはしない。この世を超えた至純とも至高とも云える観念が描ければ十分だと考えたのである。
 この両作を通じていえることは、近代とは従来日本人が自然と考えてきた概念とは異質の、ある種の不自然と云うか、否、自然を超えた概念が近代として理解されたらしい、という点である。言い換えれば人は観念のために死ぬことが出来ると云う恐るべき思想との出会いである。

 『夜行巡査』において近代はリゴリズムとして描かれる。これは分かりやすい。わたしたち日本人が自然な感情として尊んだものとは異質なものが、世界経験としての近代にと云う時代にはありそうだと云う予感であり直観でもある。
 他方、近代とはそれだけには留まらずに、従来の日本人を地上的世界に拘束していた色や欲や柵と云うものを超えた愛の概念、としても理解され始めていた、ということだろう。
 もちろん両作を並置したが重要なのはより『外科室』の方であって、愛が何物にも増して尊いと云う月並みではなく、人間は自然や現実と云う、従来としてはこの世と等価の関係に置かれた世界的構造的秩序を超えることが出来る世界経験として愛と云う概念が初めて若き泉鏡花の世界のなかに登場し始めていた、という点なのである。(他方、『夜行巡査』のように、人は陳腐な形式的な概念の為に死ぬこともある、と云う発想は近代と云ううものを考える場合にもう一つの社会的考察を暗示する。)
 愛が即自態としてそのまま尊いのではない。近代と云う世界経験のこと触れが愛と云う形式に於いてこそ後進日本に於いては一等相応しい形式を見出した、ということなのである。
 鏡花の描く世界はなにやら古めかしい。しかし古めかしい世界の切り口の生々しさは、単に古めかしいと云うだけでは済まされない鏡花と近代の出会いがあった。
 いわゆる鏡花の芸者小説と云われるもの、近代との遭遇を見なければ何にもならない。