アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』再見 ――プルーストの目で読む! アリアドネ・アーカイブスより

ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』再見 ――プルーストの目で読む!
2015-07-27 23:07:17
テーマ:文学と思想


 夏、人生の真昼時、わたしはウルフの本を読みたくなる。日本で云う盛夏はイギリスにはなく、あくまで初夏の感じに、のようなのではあるが。
ここ一か月ほどの間、決して読みやすいとは言えないヴァージニア・ウルフについてのわたしの拙い感想が読まれていることは意外でした。ウルフの難解な小説をわたしと同様、何とか読み砕こうとする読者の存在に敬意を表します。昨今の読書界の現状に失望し絶縁状態にあるわたしがごときにとっては大いなる励ましであると映ずるのです。

 さて、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』は、例えばこういう書き出しで始まる。

「 ダロウェイ夫人は、お花は自分で買いに行こうと、言った。
 なしにろ、ルーシーは、あれもこれもで手いっぱいなのだから。戸は蝶番から外されるんだろう。ランペルメイアーの職人衆がなおしにやって来るから。それにしても、とクラリッサ・ダロウェイは思った、なんてすてきな朝だろう――まるで浜辺にいる子供らにどっと押し寄せる朝とでも言いたいほど新鮮だわ。」

 お花とは、今夜の晩餐会に飾る立花のことである。ルーシーはダロウェイ家のお手伝いさん、このあと彼女は使用人たちの仕込みや段取りを総覧しながら今夜着るはずのドレスが綻びているのに気付いて自ら針と糸を持って手直したりする。イギリス上流階級の夫人はフランスやイタリアと違っていたって気さくなのである、などとベニシアさんを引き合いにだして思ったりする。
 晩餐会とはどういうものか、それも読みながら少しずつ、当時の総理大臣の臨席を仰ぐような性質のものであることが分かる。晩餐会やパーティーと云うものは自らの家の格式を、社会的ステイタスを再確認する場所なのでもある。一家の主婦が果たすべき役割としては日本人の想像できない局面がたしかにある。晩餐会を上手に取りしきれるかどうかは旦那の社会的評価にも関わることなのである。
 この晩餐会に至る道行に、時々刻々ダロウェイ夫人の若き日の友人知人たちの影が少しずつ意識の流れの世界に顔を出して引っ込み、最後は華やかな総出演の幕切れのロンドとなる。
 つまりロンドンはウェストミンスター地区に邸宅を構えるダロウェイ家の晩餐会が開かれることになる一日の出来事を、近くのビックベンの時を刻む音で区切りとしながら、多種多様な人物が混然と入出来を繰り返す、長い長いロンドンウェストミンスター地区の一日のドラマはダロウェイ夫人の花を買いに行く場面からはじまる。
 各登場人物の間に結ばれた人間関係は複雑だが、小説を理解するために極端に単純化すれば、クラリッサ・ダロウェイと若き日に恋愛関係にあったピーター・ウォルシュが主人公で、二人はなぜか結婚しなかった。 
 二人はなぜ結びつかなかったのか。二人の間に介在し深甚な影響を与えた親友であったサリー・シートンの微に入り細を穿つ努力にもかかわらず。ミスクラリッサ・ダロウェイはピーター・ウォルシュとの間には生涯をともにする恋人として、サニー・シートンとの間には、青春の無軌道、奔放さ、自由さ、そうした青春固有の観念と同一視された同性愛の関係を結んでいた。
 確かに一つには、ピーターが恋人としては良いかもしれないけれども、何からなにまで秘密と云うものを知りたがる彼の性質――つまり恋人の全てを知りたいと云う当然ではある欲求!――が、長い結婚生活に必須だとは思えなかったので、ピーターとはまるで正反対の概念の男、つまりリチャード・ダロウェイと、馬のように無趣味で平凡だが健康的で実利的な男の方生き方を夫としては選んだのである。これも人生にはよくある選択であり決断である。
 ただ、二人の関係が必ずしもよくあることではなかったのは、愛の悲劇的な結末ゆえにピーターは大学を中退し、恋人のいないインドにまで流離って何十年と云う歳月を不幸のまま過ごした、と言うことだろう。そしてたまたま、インドで愛人関係にある既婚の夫人の離婚の手続きのためにロンドンに何十年かぶりに帰国して、やはりクラリッサに会わないではおれなかった、と云うのである。
 他方、ロンドンのハイソサエティに仲間入りしているダロウェイ夫人は、すでに昔のクラリッサの面影を失っている。何となれば、この小説の第二の主人公とも云えるセプティマス・ウォレン・スミスと云う精神に異常をきたした傷痍軍人のエピソードが、ダロウェイ夫人の物語系とは無関係に同時並行に進行し、晩餐会の闌の時刻と同時刻にセプティマスは窓から飛び降り自殺をする。
 ダロウェイ夫人は上流の紳士や貴婦人たちの間を飛び回りながら、セプティマスの話題を二段階で受け止める。一つ目は、よりによって自分の大事な晩餐会でかかる話題を提供した場所柄を弁えぬ無礼さであり、二つ目は何故か、セプティマスが上流社会の社交にうつつを抜かす現状に対する、清新なプロテストとして受け止める。人にはないもの、人生と真剣に向き合うことにおいて、セプティマスには及ばないと云うプロテスタント的な想いである。――これはあくまでクラリッサ・ダロウェイが感じたことで、作者ウルフが感じたことではない。
 このエピソードは、わたしにはプルーストの『失われた時を求めて』の第三巻『ゲルマントの家の方』の、有名な「公爵夫人の赤い靴」の挿話を思い出させる。これは夜会の終わりがけに訪問してきた旧友シャルル・スワンが自らの死期を覚悟して暇乞いに訪れているのを、これから訪れることになる次の夜会の事がひっきりなしに頭を去らないゲルマント侯爵夫妻には、夜会服に赤い靴が合うとか合わないとかの方が大事な案件だった、と云うお話である。つまり、クラリッサの二段階の思いや反省よりも、ひとりの人間の死と晩餐会の話題の重大性を天秤にかけるフランス上流階級・社交人の生活習慣なり慣性が、個人的な好悪の感情を超えた無情さとして描かれているのである。
 ヴァージニアの本作に於いても社交界の栄達に現を抜かす上流社会の無内容さが批判的に描かれているわけでは必ずしもない。なぜなら一家の主婦としての晩餐会の成功は、神なき時代に生きるダロウェイ夫人にとっては、神なき神に奉げる聖餐の儀式に等しいものであるからである。それは通り一片の俗物性などと云う次元を超えた夫人の実存の根拠ですらある。訳者の富田彬が書いているように、「ひとは高い知覚のとりこになって、低い歓びを軽蔑してはならない」と云うのがこの小説のテーマと云えばテーマであるともみえるからである。かかる人生を見ると云う眼識のしたたかさに於いて、やはりウルフはジェイン・オースティンの後見者であると云う気がする。
 人は、自分よりも不幸な人間を見ることによって、皮肉にも心理的な打撃から立ち直ることがたまにある。同じことが中年夫婦の倦怠と云えばそれまでだが、情熱のない平凡な生活に疑問を持ち始めていたころのダロウェイ夫人にとっては、甚だ利己的な理由ながら、セプティマスは自分の身代わりに死んで呉れたのだ、と云う気がしてならないのだと云う。つまり人類の原罪の身代わりとして死んで呉れたイエス・キリストのお話の、神なき時代に生きるヴァージニア・ウルフの過激なイロニーであることは明らかだろう。
 さて、ここに一人の貧しい夫人がいる、エリー・ヘンダーソンと云うのだが。クラリッサの従兄妹なのであるが、社会的階級(クラス)が違いすぎるために普通の交際も途絶え立ちであり、当然晩餐会には呼ばれていなかったのが、とある誰かの口添えで招待されることになり、晩餐会の終始に立ち会うことになる。彼女としても今夜のための晴れの夜会服が一枚でもあるわけでもなくかつ共通の話題が聴ける友人、知人、縁者がいるわけでもないので退屈この上もないものになろうと思いがちであるが、彼女としては長年月に渡って庶民として晩餐会と云うものを切望し恋焦がれていたのであった。それで晩餐会が始まってから終わるまで一部終始を脳裏に刻もうと、誰とも口を利くでもなく窓辺の片隅でただひとり一日の終わりの一部始終の一切を聴き洩らすまいとアンテナのように耳をそばだてていたのである。

 その晩の晩餐会の最後に何が起きたのか?ロンドンはウェストミンスター地区のある平凡な晩餐に女神が顕現し、ラファエロ前派のように重なりつつ消えていく、波紋のような残像が通り過ぎたと云うに過ぎないのである。
 大袈裟なことではないのである。だが彼女は時の女神の象徴が通り過ぎたのを、彼女エリー・ヘンダーソンは見ることが出来たのだろうか。人生の贈り物をなに一つ恵まれることも得ることもなかったと上目づかいに悲憤慷慨する彼女の卑屈な人生観に照らして! 女神を見るためにはひとはある程度幸せでなければならない。 
 この場面にあって、少なくとも二人の登場人物は――ピーターウォルシュとサリー・シートンの目には映じていただろう。なぜなら、いまでこそ疎遠な過去の関係になっているとはいえ、かって光り輝いた過ぎ去りし日の青春と云うものの秘密を、各自が成長と云う名目の名のもとにかって投げ捨てたものの在りかを知っている二人の旧友の目には、それが通り過ぎていくのをヴィジョンとして見ることが出来たと思えるのである。
 ついでに言えば、ウルフのもう一つの代表作『灯台へ』は闇夜を横切る、ヴィジョン(女神)、と云う意味である。
 
 種明かしをすると、プルーストの『見出された時』の最終場面で、『スワンの家の方』と『ゲルマントの家の方』と云う絶対的に分岐する異方向の象徴としてあった方位感覚が、二つの家の婚姻によって生まれた家系の統合の象徴としてのサン・ルー嬢の姿に、語り手は初恋の人であるジルベルトの面影を重ねて、時が微笑んでいるのを感じるように、クラリッサとは全然違った資質と性格と趣のあるエリザベス・ダロウェイの内に、永遠なるものの神的な顕現をみるところでウルフの小説は余韻の薫り高く終わっている。

 ピーターは時の顕現に震えながらなお立ち去りかねて、「しばらくそのまま腰かけていた。この恐怖(畏怖)はなんだ?この有頂天はなんだ?と彼は心に思った。ただならぬ興奮でおれの全身をみたすものは、何ものだ?
 クラリッサだ、と彼は言った。
 なぜなら、クラリッサがそこにいた。」(本文・掉尾)

 イギリス上流階級の平凡な主婦クラリッサはここで全一なるものの象徴へと転じる!やがてこの反響は倍音を伴って、次作『灯台へ』において、ヴァージニアの母の面影を映したとされるラムジー夫人の運命の上に展開されるであろう。ともあれ、――


 ここでもやはりわたしたちはプルーストの小説の最後の大団円を思い出さなければならない。つまり人々の生死が全て時の女神の裳裾ひくヴェールのもとに連れ去られて人間的な思考や感性が滅び去ったのち、時の廃墟の中から現れる時の巨人たちの、いまひとたびの物語なのである。――プルーストは、見出された時と名づけたのだが!
 過ぎ行く時の女神の像の顕現に間近に立ち会いながら、それが手の届かぬ永遠の思いであるかのような感慨に嘆息しながらこの物語の最重要人物サリーシートンは言う。――リチャード(ダロウェイ)はよくなったわ。あなたの言うとおりね。わたしは行って言うわ、さよならを。人生は頭ではないことを。こころに比べたら!
 二人は何十年かぶりに会って、旧交を温めるかのように人生の謎について語っていたのだった。ピーターは全てお見通しのことだと云う、彼の理知の目に照らせば。しかしサリーは本当は分からないことだと云う。それを言うのはもはやサリーではなく、平凡な結婚をし平凡な子持ちの主婦となったロセッター夫人として、そう言うのである。
 時の廃墟の中から、いまや思い出となって人生の善悪を超えた群像はクロノスによって課された重きプロメテウスの頸木を解き放った巨人族の物語として復活するのである。ちょうど老いぼれた俗物ゲルマント公爵が時の頂きに立って危うく平衡を逸するかと思われながら寛容な時の微笑みのなかに尊厳を維持し、時の後光の眩暈にも似た栄光のなかに包まれていたように!

 ヴァ-ジニア・ウルフの本を読むとは、彼女の文学がどうであるかというよりも、読む人自身の人生を豊かにするのである。