アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』――ジョイスの目で読む! アリアドネ・アーカイブスより

ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』――ジョイスの目で読む!
2015-07-29 19:13:26
テーマ:文学と思想

 

・ ジョイスの『ユリシーズ』を先駆として切り開かれた20世紀文学の前衛において『ダロウェイ夫人』は幾つかの点で類似している。
 一つは小説の大枠としての設定、一方はアイルランドの首都ダブリンの一日を数百人を擁する様々な階級の人物の表出とともに、其の二十四時間を描くと云うドキュメンタリー的な設定である。
 他方ウルフも十分意識的であって、『ダロウェイ夫人』はイギリスのロンドンはウェストミンスター地区と云う、ビッグベンの時を告げる鐘の音が聴こえる範囲と云う狭い地理的な限定を受けてだが、同じように夫人や彼女を取り巻く人物群像の二十四時間を描いている。
 ダロウェイ夫人は今夜の晩餐会に供えて花を買いに行かなければと思う、と云うのも使用人たちはその準備に忙しいので。出かけようとして、今夜、総理大臣をお迎えする宴に主人役として召す礼会用のドレスが一部ほころんでいるのに気付いて自ら針と糸を持つ。上流の夫人であるのに、慎ましやかな生活描写のなかに既に恩寵の問題は秘められていた、と云うべきではあるが。
 ジョイスの『ユリシーズ』においては、主要な主人公の一人である文学青年・スティーヴン・ディーダラスが海辺のマーテロ塔と云う廃墟のようなところに間借りしていて、同宿人のバック・マリガンと会話を交わし牛乳を飲みながら質素な朝食をとる。スティーヴンは前作『若き日の芸術家の肖像』の主人公でもあり、家庭の陰湿さや祖国の悲惨な負け犬根性に反発して祖国を飛び出したものの、若き日の希望は夢とくだけて今はしがない小学校の教師としてその日をしのいでいる、と云うことが分かる。
 ジョイスの小説ではスティーヴンの他に二人の主人公格の人物がいて、レッポルドとマリオンのブルーム夫妻である。マリオンは母なる祖国を象徴し、レオポルドは観念過剰に陥った知識人の反措定、ドン・キホーテに対するサンチョ・パンサの役割が期待されている。
 ジョイスによれば、世紀末に起って時代を総括する全体小説としての構想は、その骨格に於いて学術的に規定しうるのであって、一つは高い理想を追うあまり転落するギリシア神話におけるダイダロスであり、妻の不貞ゆえに帰宅を躊躇う長き海原を彷徨うオディッシウスであり、エデンの園を追放された神々の末裔たちが、父なる幻影を求めて自滅するハムレットであり――妻の夫に対する不貞の問題はここでも重要な要素を成している――、これらの人間の元型的神話を総括するものとしてのドン・キホーテの物語、キホーテとサンチョとドルシネーアの姫が形成する、三位一体の物語であると云うことになる。神と子なるキリストと母なる聖霊の物語と云うことになる。つまり西洋文明二千五百年のエッセンスを抽出した作品と云うことになる。
 ウルフは、ジョイスのかかるペダンティックでもあれば文献史的な構造的な枠組みの人工性の影響は受けなかった。むしろヴァージニアは、超越的なものと世俗的なものとの対立と云う心理学的な構図に重きを置いた。――すなわち二人の主人公クラリッサ・ダロウェイとセプティマス・ウォレン・スミスとはいわゆる普通の外面的な小説の筋書き上では出会わない。ひとりは若い頃小さな恋をしたほかはほどんど苦労と云うものを知らずに育った上流の夫人であり、他方は戦争による後遺症によって元々あった超越的な世界への関心が極度に研ぎ澄まされて、やがてそんな自分を持て余して窓から飛び降りるほかはない不運な青年である。つまりジョイスの『若き日の芸術家の肖像』のスティーブンに似ているのである。スティーヴンがもしロンドンに生きていればあるいはこうなったかもしれないと云う、ジョイスの文学に対するヴァージニアの批評である。
 クラリッサとセプティマスの運命は晩餐会の夜、二つの双曲線が描く交差点のように一瞬交わり、火花を散らし、そして永遠に無関係のまま生と死の世界に分岐しつつ分かれて消えていく。
 しかしひとりで部屋に籠って想うクラリッサにすれば、如何なる共通点もないにもかかわらず、セプティマスが実際に自分が知っている人間以上に身近に感じられることに改めて驚く。むしろ驚いているのは、正確にはクラリッサではなくヴァージニア自身の方だろう。ウルフはこの作品の二十年後見慣れ親しんだ近所のウーズ川に投身自殺するのであるから。
 自分自身の運命の締めくくり方を二十年も前の自作のなかで予言できると云うのは、怖ろしいことである。つまり実作と作者自身の関係では、小説の主人公であるクラリッサ・ダロウェイは見知らぬ男の死によって啓示を受け命を長らえる。その小説的な仕組みがウルフの現実生活では反転し、小説は残りウルフはこの世から消え去ってしまうのである。
 ジェイムズ・ジョイスは中世の錬金術師のように言葉の宇宙と云う概念に独自の言語学的な意義を与えた。小説的世界とは自律せる独自の宇宙なのである。現実とは違ったもう一つの宇宙なのである。作品は何ものかについて語るのではなく、作品自体が語る。現実と拮抗する言語学の体系は百科全書のように地中海世界に屹立したと伝えられるアレクサンドリア図書館のようでもあり、反面は惨めな祖国の現状の反映にすぎなかった。とは言え、作品が現実の反映としてあるのではなく、語り手自体をも作品的世界のなかに取り込んで、作品自体性が語ると云う一貫したジョイスの方向は、偉大なる言語学的な変革なのである。
 他方、ヴァージニアにとっての小説的世界が意味するものは、自らの生命、自らの実存を軸とする、外的現実と内面的小説的世界が複雑に入り込みながら作用と反作用の互換関係を営むメビウスの円環のような愛と死の複合的宇宙に他ならなかった。作品を書くと云う行為を座標軸の原点に置いて、そこから外的現実と内面的なウルフの精神的な世界が危うい均衡を保ちながら、生きる術、生き延びる術として機能する、そうした危うさの美学なのである。

 ウルフほどのものであれば感傷など不要である。キリスト教的な世界では最大の讀神である自裁と云う手段を選択することでストア的意思の勝利、自我の自由を最後は守る勇気ある行動であったとわたしなどは思っている。

 ウルフの『ダロウェイ夫人』のテーマはジョイスの文学への批評や言及であるよりは、わたしには、『トニオ・グレーゲル』問題だと思っている。つまり、あのひとたち、の問題である。
 『ダロウェイ夫人』の掉尾のクライマックスで副主人公格のピーター・ウォルシュとサリー・シートンが語っているのはこの事である。
 壁の向こうに 見えるあの人たちの生活を思うにつけても、問題は、――例えばロシア文学の『カラマーゾフの兄弟』のように解かれるべきであろうか。ジョイスの文学との関係で云えば、スティーブン・ディーダラスの方向で解かれるべきであろうか。セプティマス・ウォレン・スミスの死が提起したのはこの問題である。聖書の関係からすれば弾圧されても筍のようにこの世に突出することを止めない予言者たちの群像を彷彿とさせる。
 しかし灰色の予言者たちが解く茨の道には人を畏怖させるもの、人を恐怖と云う手段によって支配しようとする悪魔の企みがあるのではないのか。荒地におけるイエス・キリストの試練とは、むしろイエスとサタンとの関係は逆なのであり、自然性としての人間を誘惑する神の遣る瀬無い甘き裏声ではなかったのか。
 むしろあのひとたちの、どっしりとした生活の揺るぎなさからすれば、やはり壁の向こう側に生活の、ほんとう、はあるのではなかろうか。日々の小さな喜びのなかにこそ!しかし、あのひとたちの世界こそ参入を阻み、カフカの『城』のように目に見えないヴェールで隔てられたものもないのであった。
 トーマス・マンのトニオは、あの人たちの世界にあるほんとうと、自らの精神的な故郷の問題である表現者であることの間の矛盾に引き裂かれる。そうして、ぼくはこれからあの人たちの生活を羨んだり憧れたりはしまいと誓う。人生のほんとうの問題は、疎外されてあることの表現者としての芸術家の呪いとして引き受けられることになる。
 同じようにウルフの、人生のほんとうを、マンと同じように首肯する。しかし、そこから二律背反としての芸術家の小説を生んだわけではなかった。芸術家は群衆を遠く離れてわれひとりあるわけではなく、むしろ、そうした自分を育み育ててくれた人々の慣性や習慣に感謝を奉げる文学をウルフは生み出すことになろう。――つまり、人生の真昼時の!

 ヴァージニア・ウルフは人間の全体を描くにあたって、ジョイスのような人工的な枠組みを排して、形而上学的なものと物質的なもの、精神的なものと世俗的なものとの腹背する二律背反の構造のなかに求めた。形而上学的なもの、精神的な世界を代表するものとしてセプティマスが!物質的なもの、世俗的なものを代表してリチャード・ダロウェイやヒュー・ウィットブレッドなど、政界と社交界でなにものかになることだけを生存の証とする奇態な生き物、俗物どもを!
 しかしクラリッサ・ダロウェイの無意識の世界に於いては、あの小さな恋の物語と称された記憶の痕跡が通奏低音のように尾を曳いて、実際には二人のこころの友とでも云うべき親友たちを失った出来事でもあったのだ。生活の安定や安穏な暮らしぶりが、なにものかの犠牲の上において成り立っていること。それは罪の自覚としてセプティマスの死を噂として聴いた彼女の内面に波紋のようにただちに生じたことでもあった。
 しかし、クラリッサ・ダロウェイはどちらの方に似ていると云うのだろうか。むろん青春の感激を忘れて久しいクラリッサは、リチャードとヒューに代表する世界の住民である。その世界とはある意味で、精神的な病の患者として訪れたセプティマスを人間としてではなく、医学的症例として処したウィリアム卿が属する冷酷なリアリズムの世界でもある。トニオ・グレーゲルの世界のように、芸術家を羨ましがらせたり憧れの対象となったりするのではなく、魂を端的に殺してしまう管理社会と云うか悪そのものでもある。
 人は生きるために多くのものを断念しなければならない。それがいやならピーターのようにインドまでも流離っていかなければなるまい。ピーターの声なき生涯の声はいまや倍音としてセプティマスの行為の五線譜上の線上にフォルテシモとなって鳴り響く!悔い改めよ!と嘆く灰色の荒皮を着た予言者たちの群像のように。
 しかしセプティマスの過激な選択がなぜかクラリッサ・ダロウェイの内に過去からの転生を、決別を、生と死の反転を生み出す。それは一人一人の人間としての運命をみるには不可解であったにしても、ひとり一人が織りなす運命は様々であったにしても、歳月と云う観点からみれば違った文様にも見えてくる、つまり人生と云う名のつづれ織りのコブランのアルカイックな笑みの不思議さなのである。
 ――時と時とがかさなりあうクラリッサとヴァージニアの微笑みのなかに!

 


(追記)なんだか、まとまりの悪い文章になってしまいました。
 ジョイスと云えば、アイルランドの気候は知らず、読み終えて感じるのは冷たい時雨に濡れそぼってコートから滴らせる灰色の群像です。『ユリシーズ』の世界には救いがありません。人間の個性や人格が、アイルランドの市民の姿が灰色の背景のなかに解けていって、最後に原型らしきものが残る。そこは人間性の墓場で、廃墟を吹き抜ける古代以来の風が変わらぬ人間の不易の哀歓を伝える、そうした読了感がありますね。
 ジェイムズ・ジョイスの文学は19世紀的な偉大なロマンと巨人たちが滅んでいった物語の先にある、空洞の風音だけが際立った人間不在の叙事詩であったのではないか、と云うきがしています。
 他方、ヴァージニアの文学は死の誘惑に諍う目が女神たちが歌う、生の讃歌ですね。ウルフの文学が多少とも難解で、読者の目に明瞭な形を留めにくいとすれば、それは登場人物たちが、本当は死者たちであるからかもしれません。もちろん、ロマンですから、死者たちであると決めつけることはできません。生きてはいるのですが生者が既に死の影を色濃く引き摺っているのです。『ダロウェイ夫人』では、生と死の表裏一体の関係は最終局面に及んでそのメヴィウス的逆転は劇的ですし、『灯台へ』ではミセス・ラムジーは既に死んでいるのです。あまりにも儚げにばらけてしまいそうな関係を辛うじて支えていた一家の主婦ミセス・ラムジーが死んで、そしてその後に長い時の時間が流れて、時の喪失感の彼方に人々は生から死ではなく死から生の世界を顧みるような奇妙に捻じれた死生観の最中に、闇の中に薄暗く浮かび上がる灯台のヴィジョンを見るのです。生と死の間に会って人間の実存を支えていたものとしての象徴――灯台と!ミセス・ラムジーの面影とを。