アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ヴァージニア・ウルフ『波』 アリアドネ・アーカイブスより

ヴァージニア・ウルフ『波』
2015-08-02 21:43:49
テーマ:文学と思想

 

・ ヴァージニア・ウルフの『波』は六人の独唱者によるモノローグ集である。モノローグと言っても内的独白ではなく、語り手の人格や個性を超えたアンサンブルと言っても良いのかもしれない。響きあう声と声の重なりが、実在の一人一人の個性や人格を超えるように、この世を超えたものを表現しているかのようである。

 独唱者の六人とはバーナード、ネヴィル、ルイス、スーザン、ジニイ、ロウダの、男性三人、女性三人の計六名である。ひとりだけ、アンサンブルの世界に声なき声で歌う象徴的人物が一人いて、パーシバルと云うのだが、影絵のように自らを語ることはなく、常に他者の思い出として語られ――と云うことは死者なのであるが、さしずめ舞台装置の関係で云えば、半透明のステージ奥のスクリーンに影絵としてだけ出てくる演出法、あるいは交響楽で云えば、バックヤードに潜んでいる第二オーケストラのようなものだろうか。

 誰にでも愛されたパルシバル!それは彼が半ば死者たちの世界に住む住民だからであろうか。あるいは、彼らの満たされなかった不慮、不易の思いが生んだ理想化のせいだろうか。かれは同僚たちの盛大な送別会に送られてインドに船出するのだがあっけなく落馬事故で死んでしまうのである。死人に口なし。いやがうえにも理想化された存在に満場一致で成りきるのであり、あるいは彼は本当に稀有の、人を魅了しつくす存在だったのかもしれない。彼がネヴィル(男)にもロウダ(女)にもともに愛されていたと云うことは、両性具有の理想美と云うよりは、性差を超えて惹きつける魅力のようなものを努力することなく本来的に持っていたからだろう。かれは彼らにとって、青雲の如き青春の墓標なのである。

 かれら六人の関係を簡単に述べておこう。リチャードは心理学で云う外交的性格で釣り合いのとれたバランス感覚は、学生時代に於いても、また詳しくは語られないが社会生活に於いても家庭生活に於いても特段の困難に直面することなく、最終章で独唱者として語り終えることになる白髪になる頃まで順調に推移したと思われる。
 とはいえバーナードは外交的な性格であるとは言え、弱いもの、傷つきやすいものには敏感である。彼は幼き頃のスーザンの寂しさをすぐに見抜いてしまう。

 スーザンは一番謎めいた存在であるように思われる。一言で云うと彼女は揺るぎのない大地そのものと云った存在であるように描かれている。しかしその彼女が初めて登場する場面ではめそめそとハンカチをボール状に丸めて泣き腫らす少女としてである、と云うのは意外である。そんな彼女に特別に気を払っているわけではなかったが、めざとく見つけて慰めるのはバーナードである。彼女はバーナードの行為をあるいは愛であると勘違いしてしまったのかもしれない。ありがちの事である。
 思えばスーザンが出てくる場面はセクシュアルな隠喩に満ちていて、彼女がめそめそと泣きだすのも、皆と行動するのが苦手で葉陰のなかに潜んでいるルイスと、それを偶然に見つけたジニイが強引にキスをしてしまう場面を偶然に盗み見てしまった、という点にある。ルイスを好きだったのかもしれないが、厳格な牧師の娘として育った彼女はこうしたプリミティーヴなトムソーヤの如き少年少女のシーンに憧れていたのかもしれない。
 スーザンにキスされたのを覗き見られたルイスは、イギリスの中流階級とは肌合いが違った社会階級の出身でその意識から逃れることが出来ない存在である、それがいつも彼の立位置を微妙にずれたものにする。実際にルイスは彼らほどは豊かではなく、この少人数制の寄宿舎兼カレッジを卒業してののちは彼だけがオクスフォードに進まずに実業界に身を投ずる。彼の秘められた劣等感は内向し、持ち前の才能と根気強い性格を発揮してのちには実業家として大成する。
 ロウダとネヴィルは最初から人生の舞台から半分ほど降りていて、水盤に揺蕩う花弁を艦船に見立てて幻想にふけったり(ロウダ)、この世とは違った言語の秩序、――つまり文学と云う世界の砦に閉じこもる(ネヴィル)。つまり異端である二人!
 美貌のジニーは暇さえあれば手鏡を出してパフで化粧を整え直すほどの外交的性格である。一口に外交的と言っても彼女はバーナードのようなナイーブさは持たないようである。彼女はパルシバルに仄かな恋情を抱いたほかは人を愛すると云うことはなく、愛されると云うことが自然体として身に着いた存在であるかのようである。彼女の手鏡を持ってお化粧直しをする儀式はまるでカソリックの司祭の聖餐の儀式のようでもある。
 こうした誰にでも受け入れられるのを当然のようにして生きているバーナードとジニー、仲間の共通意思に付いていくのが苦手の何拍子か遅れがちのルイスとロウダ、その間に在って中間的存在として大地の如く不動の農民的な性格を見に着けるスーザンと、これはまた都会的な洗練を見に着けることでこの世とは異なった世界秩序に生きるネヴィルと、あらかた全体の構図を大まかに言えばこのようにでもなろうか。何分、間接的な話法と描写を通じて朧げに姿を現してくるウルフ独特の表出法ゆえに、明瞭にはしかと云うことが出来ず思いもかけない思い違いや誤りもあるかもしれない。けれども、だいたいはこのようなのであろうと想像する。
 二点だけ、特異点を話しておくと、一つはスーザンに関わること、――読後の印象としては揺るぎない大地の肝っ玉母さんを思わせるスーザンが、よくよく読んでみると、最初はめそめそした泣き虫の小さな女の子として紹介されていることである。母親の影が全く語られないことは、叔母に育てられて家族の背景を書いたロウダの場合とともに気になることである。この少女が人生と云う波間のなかで成長していくのである。成長すると云う観点から読むと、不思議に残りの五人は何れも過去の経験に呪縛されたかのように現在進行の諸経験がその都度、過去に回帰し、幼年期に得られた性格は変えようのない宿命のようなものとして反芻され、成長と云う概念からはほとんど見放されているかのようでもある。スーザンをこうした成長しつつある人物として、またほかの五人の学友に共通する都市生活人としての性格を、大地に根差した農本性として特別に描いたウルフの意図は何だろうか。
 二つ目は常識人バーナードに関するものである。いままでは幕ごとに六人の独唱者が代わる代わる、あるいはアンサンブルを形成しつつ歌っていたのが、最終場面に来てバーナードのみがステージの前面にせり出してきて、その後の六人の運命を要約し語る、つまり十九世紀風に言えば作者の代理人として登場するのである。しかもバーナードが語り返るのは誰に対してなのか。読む進んでいくに従い次第に、死、がまったき相貌を現してくる。
 死に対峙するバーナードの風景とは何か。個人を個性として繋ぎとめていた人格の枠組みが揺らぎ溶解していく。バーナードは次第に自分が誰だか分からなくなる。そうした形で死は出現して来る。だれでもの死として!
 死の風景は、言語を超える事象であるのであるからウルフの言語学的な手法も死をそれと名指して、言語で語ることはできない。それで死との遭遇を、人格の崩壊として描いている、次に、色彩を失った無機的な風景として。最後に、事物が固有の本当らしさや重さを失ったスローモーションの映像として。
 ここから死と対決すべく如何なる反転的事象が生じるのか、と云うのは難しい。日常性が一旦空無に化して、波打ち際で砕ける波頭の繰り返しのように、ある時は激しく、ある時は穏やかに、日々の時間と慣習の蓄積が再び日常性を回復していくと思いはするのだが、ウルフはそこまでは描いていない。
 それがこの小説の結末を難解にしている。

 この小説の魅力は何であろうか。それを語るのは難しい。内的独白や意識の流れと云うよりも、超人格的な語りの文体で終始する淀みのないイメージとシンボルの洪水は、ところどころ美しいアンサンブルのように響きあう。この世のものとは思えない、まるで死者たちのつぶきあい、語り合いのように美しく、切ない!
 それにしても語るのは誰であるのか。六人の音声はなにか形而上学的な蒸留器のようなもので濾過されたかのような半ばの趣きがあり、個性や個人的な体臭がほどんど感じられない天使のような透明域の音声にまで高められている。この世にはあり得ない音声、あってはならない音声である。まるで世界がそれ自体として語るような、ヴァージニア(開闢の処女地)の世界なのである。

 結局、時の経過とともに語られた内的モノローグの連なりの果てに何が語られたのだろうか。既に言ったようにパルシバルはインドで落馬して死んだ。ロウダは断崖から身を投げて死の国の住人になったと思われる。中庸の美徳の権化の如きバーナードは平凡な結婚をし平凡な家庭人となる。さらには六人のそれぞれの運命を見届ける。スーザンは六人のグループの何れとも精神的で親密な関係を築くこともなく、平凡な牧場主と結婚し平凡な家庭生活を築く。誰にも指を指されることのない生き方をしたバーナードとスーザン。しかし二人は幸せだったのだろうか。
 六人のなかで自分だけ大学に行かなかったルイスは克己の精神を発揮して成功した実業家となる。かれは一連の疎外感ゆえに、同類相通ずると云うかロウダと愛人関係に入るが、彼女の孤独を慰める術もなく死の世界への傾斜を留めることはできない。かれは結婚することもなく独身を通し、駆け出しの頃から住み着いている屋根裏部屋を郷愁の如く愛着を示して、そこから逃れようとはしない。彼は幸せだったのだろうか。
 そしてここでは語られることの少なかったネヴィルとジニーの二人も。この世との付き合いは程々にして文学と云う第二の世界に生きると云う選択肢は確かに安全運転の模範でもあっただろう。外形的に飾り立てること、それもジニーほど天性のものであれば聖職者の儀式にも匹敵するほどの超越的な普遍性を持ちうるのかもしれない。しかしいまや彼女は最大の敵を発見する。それは老いと云う時間の流れなのである。彼女が立派なのは泣き言を言わずそれに立ち向かおうと云う気風の良さである。それはそれでよいのであるが、二人は幸せであっただろうか。

 思い返せば夭折したパーシバルだけが、歳月との闘いと云う悲愴な決意で臨む最初にして最後の負け戦を、その不条理から免れた稀有の存在だったのである。
 『波』は、時に諍うものの物語である。