アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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樋口一葉 作家と実像の間 アリアドネ・アーカイブスより

樋口一葉 作家と実像の間
2015-08-06 21:40:54
テーマ:文学と思想

 

・ あたりまえのことではあるが樋口一葉の作家と実像の間と云うことを考えたのは竜泉町に一葉記念館を訪ねてから随分経ってからであった。具体的には一葉日記を読んでからと云うことになる。
 樋口一葉の文学を通り一遍しか知らなかった当時のわたしは、竜泉に一葉記念館を訪ねても、ここが『たけくらべ』の舞台となったところであり、一葉自身も作品と同じ社会環境のなかに生きてきたとばかり思いこんできた。第二に、これは一葉にも責任があることだが、一葉と清貧と云うイメージ、一葉がそのようにみられたがっていたと云う作為の面もあったであろう。しかし一葉日記を読むに及んで、むしろ樋口一葉の生涯に於いては竜泉町時代は特殊な例外であったこと、例外であるがゆえにこそ、以前の交友関係も厳しく断って、親友である伊東夏子にすら、訪問を厳しく禁じていると云う事情があったほどであった。貧しい暮らしぶりを、裕福な家庭に育った伊東夏子や萩の舎の面々の前に恥じたという面もあったろうけれども、それだけ一葉の決意が並々ならぬものであったことを語っている。清貧とは、ここで身にあった暮らし、収入に応じた暮らしぶりと云う風に定義すると知れば、その清貧を文字通り実践しようとしたのが、わずか八か月に終わったとはいえ竜泉の生活であり、それが短期間で破綻したと云うことは、樋口一葉は一時清貧を理想と掲げそれを実践しようとしたが、清貧は考えていたほど容易ではなかったと云うことだろう。
 むしろ一葉日記を読む楽しみは、本郷の、後に「桜木の宿」と命名された少女時代の幸せであった頃の思い出であり、萩の舎時代の、名門の子女たちに立ちまじって暮らした花鳥風月の絢爛とした絵巻物的な世界である。貧しい一葉はそこでは階級的には異質な存在であったけれども、なかなかどうして意気軒昂とした描写は、清貧の理想とばかりはいかないのである。むしろ樋口一葉と云う人は、同時代の漱石や鏡花、あるいは藤村や透谷と云った人々の暮らしぶりとは違って、最下層から家族や名門富豪の暮らしぶりまで、微にいり細にいり知り尽くしていた、という点だろう。かかる社会経験の広さは、後の日本近代文学史の経験とは異質であって、むしろもう一つのの本近代文学の可能性をすら彷彿とさせるものがあったのである。ただ、残念なことは、一葉がかかる自らの過渡期における時代経験や社会経験の幅の広さと深さを同時に自らの文学的な営為に生かしきれたかどうかと云う点にあるのだが、それを生かし切った作品は彼女の伝統的なスタイル、夭折と云う宿命を考慮しても小説作品の中には見当たらないようである。
 樋口一葉は文学的な完成と云う意味では『たけくらべ』を随一に挙げて支障はないと思うけれども、可能性としての一葉の文学と云うものを考えると、『ゆく雲』、『にごりえ』、『われから』、『この子』、『うらむらさき』、『別れ道』などを考えてみなければならないだろう。
 『ゆく雲』のシニックな笑みを浮かべるヒロインを描く一葉の突き放し方、一葉と云う人の不人情と云いうか、不気味さをまざまざと見るようである。それが『別れ道』となると、凹型の心理小説と云うか、ヒロインの表情が陥没して、なりは大きいのに子供のような純粋さを残した男の子を後ろから羽交い絞めにして、それでいて尚且つ表情が描かれないと云う技法によって、一葉の言葉に伝えがたい哀しみをわたしたちは知るのである。
 『この子』の諦念、『にごりえ』や『われから』の狂気、そして『うらむらさき』アイロニカルな挑発性などを考えると、もう少し長生きできておれば違った日本文学の分野を開いたひとをわたしたちは目にすることが出来たのかも知れないと云う思いが去らないのである。

 樋口一葉と実作品との関係は以上のようであるのだが、実生活との関係で云えばまた違った、従来の一葉像とは違った実像がほの見える。
 ここでも、僅か八か月に終わったとはいえ竜泉の街の時代経験が一つのエポックになっているのだと思う。樋口一葉の生活は一様?に貧しかったとは言えるけれども、生活の様式は先述したとおり、後の日本近代の文学者には見られないような広さと幅と深さを持つ、高度な経験の質を備えたものであった。かかる経験の質と幅と深さを一葉の文学か生かし切ったとまでは言わないけれども、現代の庶民が考えもつかないような生活的な実質の豊かさと云うものを持っていたと遥かに想像されるのである。このへんは、わたしなども一葉に釣り合うような和漢の教養を持たないのでなかなかに実感としては掴めないのである。ただ、思惟として超越論的に想像してみるばかりなのである。
 とはいえ、竜泉の経験が一葉の生涯史の中である特異点を形成し、そこから退行する過程でむしろ文学的な経験は異常に反比例的に級数的に高まり、よく言われる奇跡の十四か月と云う時代が画されたことも間違いはないであろう。
 ただ、この時代と前後するような形で渋谷三郎や久佐賀義孝の出来事があり、とりわけ後者の関係が難解である。久佐賀はいわゆる心霊的な相場師であり、現代であれば新興宗教のひとつでも開いて開祖とも成り得た人物であろう。その俗界-神霊界の領域を生きる達人を従来大和撫子か手弱女の見本のようなイメージでとらえられていた一葉が、むしろ手玉に取るように翻弄する姿は意外というか、開いた口が塞がらないと云うのはこの事だろう。わたしたちはむしろ完全に異質の樋口一葉像に出会うのである。
 多くの評者は久佐賀の好色に筆誅を加えている。確かに久佐賀の風貌はいわゆるインテリの反感を生じさせるのには格好ではあろう。しかしわたしが注目するのは一葉の反応の方ににみる性格的な異常さであり、無惨さであり異様さである。
 誰かが書いていたことだが、これでは年増女の手練手管の見本そのものではないか、二十四歳で夭折した閨秀作家の感性とは余りにも異質なものであると書いている。わたしもそのように思う。しかし、一葉の死へと向かう肉体の破壊と魂の破断の隙間から、従来の一葉としての人格的な統一性の中からは考えられもしなかったような異質で黒々としたものが噴き出てきたのである。
 その不気味さが、例えば『ゆく雲』の冷笑であり、『われから』の、このままで済むはずがないと云う未来永劫に向けられた呪いであり、『うらむらさき』の挑戦的で戦闘的ななスタイルであったであろうと思うのである。

 樋口一葉が最晩年を過ごした丸山福山町の時代のおもしろさは、一方に清新の気風横溢した文学界の青年たちとの交友があり、他方では久佐賀義孝などの得体のしれない大人の世界との付き合い方もなお継続していたことであろう。経済的な理由はあったにせよ、一葉の挑発的な態度は、一つには才能ある人間――自分の事――を社会はむざむざと見捨てるべきではなく富めるものは援助すべきである、ということもあったろうけれども、背景には社会の規範的なモラル、特に男性的な価値観が支配する世の中に対する価値相対化の契機があったと思われる。ここまで書いていいのかどうかは分からないけれども、当時近代国家として確立しつつあった日本の、私有財産を前提とする経世的な論理を突き抜けて、命の瀬戸際のあるものがどの程度まで社会に対して請求できるのかと云う問題を提起する手前まで行っていたと云うことはあるだろう。『大つごもり』ではないけれども、私有財産を基本とする社会のモラルや価値観に対して盗むと云う行為が持つ価値相対化の経緯は明らかに認められるのである。
 一葉はいまこそ見えていたのだはないだろうか。自分を殺したものの正体を!それは清く貧しく美しくと云う、清貧の理想なのであった。
 その欺瞞性に気づき、切っ先を向けようとしたところで間合いのなかで命絶えたのである。