アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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社会革命家としての一葉 アリアドネ・アーカイブスより

社会革命家としての一葉
2015-08-11 14:04:05
テーマ:歴史と文学


・ 作家とその社会的-歴史的背景を知るとはどういうことだろうか。
 例えば島崎藤村『夜明け前』との関係を見ると、彼の出身階級、封建的幕藩体制を支えた、本陣、問屋、庄屋のシステムを束ねる者としての歴史構造的な位置が、個人的な思惟がそのまま歴史的思考に連動する仕組みが上手に活用されていて巧みさに驚嘆の気持を味わう。通常、歴史小説や時代小説では、彼が何であり、どういうことを考え何をしたかが語られなければ意味がないが、藤村の歴史小説は父である島崎正樹(青山半蔵)の存在論的な立ち位置を語ることが同時に歴史を語ることなのである。それゆえ青山半蔵の悲劇は、同時に歴史に夢を描いた明治維新前後の激動する時代を生きた庶民の悲劇なのであった。
 そうした作家と社会-歴史的存在論的な立場の関係を考えてみると、現代は貧富の格差は拡大気味に存在するものの、社会的存在としての階級意識としても、被雇用者、つまり宮仕えの論理に近いのである。つまり自分自身では意識しないけれども、巨視的に観れば国民の意識が似通ってくるのはやむを得ない。みんな一律に似てくる。ここから例えば、人のものを盗んではならない等の不文律への態度留保的態度であるとか、私有財産を侵害しても構わないのであるとかの論理を導き出してくることは、意外?と難しいのである。権威と宮仕えなり俸給取の関係は、一部漱石が反抗して見せ、鷗外がイロニーを持って演じて見せたことにあるように、この近代化の百年を通して、紆余曲折はあったにせよ概略は変わらないのである。例えば、国民意識と云う観念が如何に逃れ難いものであるかは、かって三島由紀夫がイロニーを持って語っていたとおりである。三島は海外に出て、ふと目にした日の丸の国旗を見て、こころのなかから湧き上って来る自らの感情の真正さを疑いえぬ不動の感情として、かかる心理的機構の不可思議さを彼は語っていたと記憶する。
 さて、そうした個人の社会的存在を規定する宮仕えの論理であるとか国民意識であるとかを自明化されたものとしいて前提し、そこからあらゆる論理や倫理を組み立てる全般的日本人の習性が樋口一葉の場合はどのようになっていたのだろうか。
 案外読み込まれていないのが、例えば『おおつごもり』にみられる私有財産のあり方への懐疑であり、『十三夜』に於けるような、女の命を物品か何かのように考えてそれを不思議ともおかしいとも思わない社会の通念的なあり方である。こうした社会の非情さの論理を卓越的に描いたのは名作『たけくらべ』であろうし、告発の鋭さは『にごりえ』や『われから』に見いだすことが出来る。前者に於いては、現実に存在する社会の掟を信じまいとするあり方によって魂は幻想の域を浮遊し、幻想的な世界から見られたこの世が無常として重さを失った時、他者の手にかかって命絶える運命が受容される。この作を読みながら思いが去らないのは受難者の面影である。後者に於いては、存在する実在の社会のシステムや現世に対する思いは、狂気や呪いとして不気味に物語空間の背後に鬼火のように不気味に揺曳する。『われから』は日本のボヴァリー夫人である。樋口一葉がかかる現世的論理の否定と価値観の相対化の上に『うらむらさき』の不敵な一瞥を描き切るに至るまでは、あとほんの一歩であっただろう。
 こうした一葉の現世の掟や世俗の論理、社会のシステムとは異なった幻想の領域に、一歩翻りつつ退歩しながらこの世の実在の構造を撃つと云う姿勢は、最晩年の丸山福山時代における文学界の青年たちを受け入れる下地とも親和性を帯びた関係とも無関係ではなかったろうし、これとは対照的に渋谷二郎に対する断固たる拒否の一部終始や、心霊的相場師・久佐賀義孝の好色に対する王朝的な優雅で典雅で婉曲な技法による翻弄的拒否とも表裏であったであろう。あるいは当時先端的な位置にいた鷗外や露伴の協力を半ば利用しつつも最後は同化を阻んだ江戸女の最後の粋や意地というものも、一筋縄ではいかない論理計算には解消し得ない関係があったのかもしれない。
 樋口一葉の社会的な位置が分かりにくいのは、彼女が生まれて死んだ明治期の僅か二十四年間と云う短い時代が、同時に日本の歴史に於いては大きな変動と変貌の時期に重なっていたことにもよろう。彼女は自らの家系の興隆と没落を通して、この世のあり方と云うものが相対的なものであると云う視点を理解していた。
 また、貧しくはあっても、卓越した和漢の知識や教養を通じて社会の上流の機知や風流についても精通していた彼女にしてみれば、社会の各層に遭遇してもなんら狼狽えることなどはない、ある種の達観に達していたと思う。歌学の修練を通じて、師匠やときめく諸先生方の動向を傍にみながらも彼女の達観は冷ややかである。また、例えば同時代に生きた泉鏡花にあった様な権威や権力に対する卑屈さがまるでみられない。そうした度胸の据わり方が、明日の貯えがなくとも明日を思い煩わない、困窮極まって借金を申し込むにしても堂々としていて借りても返さない、返さなくても端然として言い訳をしない、というような、二十四歳で儚くも夭折した大和手弱女とは思えないような内面と外面との不一致とが、日記から浮かび上がってくる一葉のもうひとつの姿われわれは目にするのである。