アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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水城の別れ

水城の別れ
NEW!2020-07-04 23:12:06
テーマ:わたしの住んでいる町



 国道三号線を南下し、水城の土塁が見える切通を通過するたびに、いつも旅人のことは忘れていて、不意打ちのように、休憩がてら何気なく石碑を読んで決まって涙が出てしまう、不思議です。待ち伏せにあった感じ!それほどにも中年の男女の愛、哀切です。
 長い苦難に満ちた太宰府赴任が終わり、平城へ引き上げていく大伴旅人を送る、愛人・児島の歌、――この歌にいつも泣かされてしまうのです。



おほ
ならばかもかもせむを畏
かしこ
みと振りたき袖を忍びてあるかも(万6-965)

大和道
やまとぢ
は雲隠れたりしかれども我が振る袖を無礼
なめし
と思ふな(万6-966)

 「おおならばかもかむせむを、・・・」とは、恋愛が持つ機微をうまくとらえています。贈る相手が、今でいう太宰府の最高位にあるものとの身分違いだけを読み取るのだけでは十分でありません。ここには誰にとっても持つ共通の感情、愛の特別な、


感じがよく出ています。「わが振る袖を無礼と思うな」も、二人が現実に生きた世界に関わらない超世俗的な感じ、超越的な感情のありかを確かにとらえています。


 もうひとつ児島の歌で言えるのは、これが万葉人であろうかと思えるほどの近代的な感性の在り方です。
人は愛を形として表現することを透して、実は自分の固有な在り方に出会います。近代フランス文学で愛と孤独は隣り合わせで、愛の裏側には孤独があり、孤独の裏側は愛である、ということです。
 ここにいう孤独とは、多くの日本人がイメージするような疑似村落共同体から疎外された在り方だけを言うのではありません。孤独とは、自分の固有の在り方、固有さとはそこに到達してみて初めて自分は自分である、あるいは、自分が進行完了形の未来形において、本来の自分になるという、本来の自分自身に到達する、という在り方なのです。
 その愛の在り方の固有さが、また、児島の女性としての固有な在り方が、最終的には人としての実存の在り方がよく出ていると思います。


 これに応える旅人も流石です。

大和道
やまとぢ
の吉備
きび
の児島を過ぎて行かば筑紫の児島思ほえむかも(6-967)

大夫
ますらを
と思へる我や水茎
みづぐき
の水城
みづき
の上に涙拭
のご
はむ(6-968)

 やや形式的、定型的な表現であることはこの場合よしとすべきでしょう。


大夫
ますらを
と思へる我や水茎
みづぐき
の水城
みづき
の上に涙拭
のご
はむ(6-968)