アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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透明な愛 乾いた愛 枯れた愛 アリアドネ・アーカイブスより

透明な愛 乾いた愛 枯れた愛
2015-08-30 09:21:33
テーマ:文学と思想

 

 それほど近代日本文学に精通していませんので数少ない事例で云いますと、表題のような愛のかたち、日本文学にもあるのでしょうか。

 樋口一葉に『ゆく雲』と云うのがあります。単純なお話で、お互いに似たような境遇にある二人の歳若き男女が、近親に近いような愛を自覚するともなくほのかに揺曳させて、それをどうやり過ごしたかと云う、表面的には何ごともおこらず、目に見えない、愛の沈黙に関するお話です。
 樋口一葉と云う天才を才能ゆえに時々薄気味悪く感じることがあるとすれば、斎藤緑雨などが感じもし指摘もした、冷笑ののちの微笑み、というあのくだりですね。一葉の愛は逆巻く秋の通り風に踊る枯葉のような記憶に響く乾いた無情な音がします。この点は作家としての一葉の性格と云うよりも、樋口夏子と云う人の天性と云うか、性格だと思います。実際に、樋口夏子はそのように生きてきたのだと思えます。
 同じ不遇をかこつ境遇ゆえに、それも双方がうら若き男女であるとするならば、同情や自己憐憫が乗じて恋愛感情に似た形をとる。男の方は、純情であるがゆえにこそ、かくあらまほしく、かくありなん、とは思うものの、女の方は同情と異性間の恋愛の方を区別していて、憐憫の気持でもってやり過ごそうとする。ここまではいいのですが、一葉の特別なところは、愛に対する憐憫が鮮やかに冷笑へと変貌する過程です。ものが良く見えると云っても、何もそこまで冷徹で透明でなければなくとも、とは思うのですが。
 文献などでみますと明治の青年は多感で情熱的でした。少なくとも明治二十年の頃までのある時期、民族の歴史的な解放感が実現されるかに見えたとき、青年たちは政治の世界に早急な理想の実現を夢み、それが一転して叶わぬといなれば一部キリスト教と恋愛に収斂しつつ個別的な内面的な世界に縮退し、かつやむに止まれぬ自我の究極の表現を求めました。今日からみれば、政治的冬の時代における彼らの行動は内面への沈潜ともみえるのですが、内面的表現の自由とも見えるものが彼らの間では政治的な情熱が変形したものであったことは、今日では随分と理解するのに難しくなっていると云う事情があるのです。宗教と政治を、あるいは政治と恋愛を対立的に考える慣習は何時ごろに成立したのでしょうか。政治とは、政治学が扱うような対象としての統治や治世の技術のことではなく、人が自らが人間であることのために他者に向かって表現する美学の一形式であると云う古典古代のギリシア精神の理解と似たものが、少なくともわが国の明治期のごく一部の時期にはあったと考えられるのです。
 また、ついでに言えば、漱石や鴎外などと云う近代日本を代表すると云われる文豪たちの存在も、よく考えてみれば、日本の近代が、ひとり一人の人間であることの表現であることを断念してからの「のち」の、こと果てた後の物語であったことはよくよく考えてみるべきでしょう。夏目漱石の小説が、何ゆえにか重大な事件が終わって後の『それから』であり、それからの「のち」を区分する結界域の『門』であることの象徴的な意味に言及した論攷はあるのでしょうか。
 話が脱線してしまいましたが、一葉の『ゆく雲』のヒロインは、男の側の迸るようなあるいはガス灯の蒼い炎のような情緒纏綿した心情の高まりをもやり過ごし、所詮、男の情熱とはあてにならぬものだとばかり達観しているかのようなのです。一葉の小説を読んでいると男が可哀そうになります。本当に情熱的になれるのは男であって、社会の中で一人前には遇されない女の存在は、人格としての愛を語るのには時期尚早だと、つい冷酷な批評もしてみたくなるほどです。もちろんかく言うわたしがどんなに主張しようとも、一葉の方が遥かに上手なのですが。
 明治時代の青春は、没落士族や不平分子の政変や自由民権運動、さらには秩父事件などの政治的挫折をとおして、その表現を宗教やヨーロッパ的な自由恋愛の思想に、さらには具体的な手立てとして近代日本文学と云うあり方のなかに求めました。若きヴェルテル的疾風怒濤の精神は政治的挫折にもかかわらず、綿々と衰えてはいなかったのです。
 革命家として、あるいは社会改良家として一葉が見せた憐憫とは、こうした多情多恨の、明治の青年たちの疾風怒濤の精神に対してでした。それが一過性のものでありと、見限っていたようにも思われます。
 樋口一葉と云う作家を怖ろしいと思うのは、あらゆる情熱を見限ってしまう冷静さ、冷淡さ、冷酷さにあります。それでは対象を、客観的に冷静に見過ごして掛け値なしの揺るがざる評価をえた結果、自分が幸せになれたかと云うとそうでもなくて、『ゆく雲』のヒロインは非合理で不合理な家父長制度の中であくまで孝養の徳を義理として特異的に献身しながら、血も涙もない枯れ果てた生涯をおくることになるだろうと、一葉自身が酷評していることです。そして一葉自身もそうした、自他に対する冷酷で冷淡な自己批評のなかに於いて一人で死んでいくのです。要するに一葉のお相手が出来るほどの男は日本にはいなかった、と云うことなのですね。匹敵するほどの人格と人格の間の均衡がなければそもそもヨーロッパ的な意味での近代的な恋愛は成立しません。日本の男が詰まらないのです。
それにしても明治の青年の純情や情熱を冷笑や憐憫で見送ると云うならばともかく、薄ら笑いで報いるなど、何という小説でしょうか。

 樋口一葉と云う作家は距離をおいて眺めてみると、和漢の膨大な教養と素養にも関わらず、紫式部清少納言の後継者でありながら、同時にヨーロッパの近代と云うものを、あるいは近代文明と云うものが日本と云う固有の風土に移植された場合の諸相について、その悲劇性も踏まえながら、まるで少女のような透徹した眼差しで良く見据えていた作家であった、と云うことが結論になります。例えば滅びゆく廓と云う伝統社会を背景にした幼年期から思春期への移り変わりの変容を鮮やかに描いた名作『たけくらべ』にしても、単に江戸文学の余香を伝えた名作と云いうだけではなく、子供の世界を切り取って見せる切り口の固有さ新鮮さなどに、かえって一葉の西洋文明との遭遇と云う新しい歴史経験があったことなども、今までに言及した一葉の研究などはあるのでしょうか。
 わたしが次に取り上げたいと思うのは漱石の『三四郎』と云う中期の小説です。この小説の中で里見美禰子と云う謎めいた女性が散々に田舎青年・三四郎を翻弄する話は有名ですが、この話は一度も正しく評価されたことがあるかと云うとどうなのでしょうか、どうもそうではないような気もするのです。
 美禰子もまた、ある出来事の終焉してののちの「それから」の存在であることは、小説を読んでいく過程で徐々に明らかになります。里見美禰子は、樋口一葉の文学の親戚と云うよりも、樋口夏子の後継者なのです。
 純朴な田舎の青年に対して思わせぶりの行動をとりながら、最後は突き放して身持ちの好い生活の安定した旦那を選んでしまう。これも何という小説だろうか、と云う気持ちになるのですが、里見美禰子には、――漱石は書いていませんが、仮面の裏面に涙があります。一葉の『ゆく雲』のヒロインには仮面の裏にも表にも涙はありませんでしたが、少なくとも樋口夏子には涙がありました。名作『別れ道』などを読めば分かることです。
 思えば大変不遜な言い方になるのですが、夏目漱石自身が当時、『三四郎』の表現した限りでの意義について理解していなかったようなのです。里見美禰子の前身である『草枕』の那美さんの描き方をみれば分かるでしょう。漱石の『草枕』は一葉の最晩年の問題作『われから』にたいへんよく似た素材を用いていることに言及した研究はあるのでしょうか。
 夏目漱石は生涯の終わりのころ、『草枕』の那美さんのモデルとなった前田卓子と再会します。ここで漱石は短い熊本滞在の期間では読み込めなかった彼女の象徴的な運命についてはじめて理解します。
 さすがは漱石と云えます。

 三人目は堀辰雄の『風立ぬ』のヒロイン、節子、こと矢野綾子の場合です。
 節子は夏の軽井沢の木漏れ日の下に懐かしく登場します。自分の与えられた運命を知ると諍う風もなく、従容と、死に逝くものの規範を語り手の前に示します。自分のためには何も求めず、療養所と宿舎の間を往復する道のりを遥かに想って、雪の日の労りを語り手の髪の毛についた雪片を指の先に取って見せることで、永遠!を表現して見せるのです。これも何という小説でしょうか。
 こんな生き方を目の前でされてみると、残されたものにはどんな生き方が残されているのだろうか、と考えてしまいます。それが『死の影の谷』と題された、別章の意義です。聖書の、われ死の影を歩むとも・・・・・。
 ある意味では、大変に残酷なお話とも云うことが出来ます。堀辰雄は、自分自身が理解した限りにおいての近代的な愛の姿を、極限態において表現したともいえます。

 日本でも乾いた愛、と云うよりも、熱き深き情念が燃え尽きた果ての透明になった小骨の幾何学的な硝子の結晶体のような愛と云うものの、表現例はあるのです。それぞれに条件も背景も異なった愛のおのおのの姿ではありますが。

ここでわたしは西洋的な愛の概念が至高のものであるとか、日本人には所詮、生活慣習としては無縁のものにとどまるであろう、などと云うことを云おうとしているのではないのです。望んでも望まれても望まれなくても、『ヒロシマモナムール』や『モデラート・カンタービレ』の迸る泉のような乾坤一擲の清冽さ、『ゆく雲』のヒロインや樋口夏子や里見美禰子の悲哀をくぐりぬけた果ての冷笑、そして前田卓子や矢野綾子のようなものに動じない卓越した生き方の様式は望まないでしょう。わたしが望むのは、もう少し穏やかな生き方のほうです。
 ただ、そうしたこの世でも稀な生き方を芸術を通して理解することは、平々凡々とした生き方に終始したわたしのような人間の時間性を少しは豊かにできる、と思うのです。