アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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注釈 空白と無と云う概念の起源 アリアドネ・アーカイブスより

 
 空白と無と云う概念の起源
 
先稿ブログの本文につけた注釈の再録です。
問題提起:空白や無の概念は、
古代ギリシア東洋哲学の昔から
本当にあったのか。
 
 資本主義と云うシステムの特徴は、社会のあり方を説明するために外部に価値なり規範を必要としない自動自立のシステムだと考えます。と云いますのも、社会や人間の共同体はその誕生から宇宙や自分たちが属する世界の成り立ちを説明するために、何らかの神話や仮説を必要としてきました。神話とは、自分たちの住む世界の地平とは異なった次元に説明の原理を委託する、という考え方です。大雑把に言うと、古代の神権政治や宗教と云うものは外面的な厳めしさの印象にもかかわらず、こうした必要性と効用の原理の上に成り立ちました。
 それでは天皇制のように近代・現代に生じた疑似神権主義国家の存在をどのように考えるべきでしょうか。あるいはアーリア崇拝の殺人国家や共産主義の名を騙った個人崇拝の国家はいかにして成立したのでしょうか。経済の原理としての下部構造は資本主義的(計画経済や統制経済は資本主義のある意味での奇形的純化の結果とも考えられる)であるのに、上部構造は古代王権的なミステリアスな風貌を備えている一身双頭のシャム双生児のような奇態なあり方をどのように説明したらよいのでしょうか。
 資本主義が、世界各地に伝播、伝搬する過程でそれぞれに地域や国々でとり得る様々の特殊的な諸形態、各々がとり得た妥協の変態的諸段階とも考えられますが、やはり基本は資本主義の経済システムが基本にあって、説明原理不要の外部の空白性のなかに、任意に書きこみうる恣意性、独善的ドグマの産物だと考えたらいかがでしょうか。つまり、世界の外部を原理上不必要とする資本主義のシステムに於いてはその効用性に於いて、地上に存在しうるほどのものは必要な限りでは遍く利用しうるし商品として利用すべきである、空白や無の概念と云えども無記のスクリーンとして例外ではあり得ないと云う、功利主義の観点からも肯えると思えるからです。
 もし社会に於いてそれを説明する倫理や精神的原理が必要とはされず、社会の外部性が個人の想念からは逆立ちした単なる超越として、空白のスクリーンの如きものとして、任意に書きこめる落書き帳の如きものであるならば、ヒトラースターリンの肖像を書き込むこともルーズベルト天皇制のプロフィールを描き入れることも、任意に可能であった、と云うわけです。
 それでは外部の空白が任意に書きうる実在無き原理であったにしても、なにゆえ空白は存在するのか。空白や無なるものはそもそも何時からこの世に存在し始めたのか。空白と無の起源を問うことは難しく、近代以降に生じた総体的価値が部分的自律の原理にとってかわられ、諸価値の並存に分裂を始めたころ、諸価値の「外部」には何があるのかと云う問いの形で、空白と無の論理はこの世に存在し始めたのではないかと疑っているのです。
 言い換えれば、部分的諸価値が自らの自律に目覚め純化と明晰化を図る過程で必然的に、「外部」はくっきりとその容貌を顕わにしたとも云えるのです。つまり社会が合理的で論理的な原理で説明されればされるほど、非合理としての空白や無の問題は鮮明化し先鋭化すると考えられるのです。
 こうなりますと空白や無の概念は無記のスクリーンが持つ恣意性や偶然性を超えて、人間的営為を司る自律性と自立の論理を外側から規制し、かつ骨抜きにする無限定の規範力として機能しうるようになるのです。つまり近代的合理人の意識は、一方では無意識と云う内面の規制力の影響下に膝を屈し、他方では価値の中立性と云う名の名称なきイデオロギーの任意の統制下に易々とあると云うあり方を選ぶことになるのです。こうして華々しくスタートしたはずのルソーの近代の理想と云う未完のプロジェクトとカントの啓蒙的理性は徐々に武装解除されていったと考えられるのです。
 そういう意味では現代社会と云うものは合理的で科学的な印象にもかかわらず一枚板の舟底は、神話化や神秘化の狂気に直面した、おどろおどろしい非合理や不合理の誘惑から板一枚で隔てられた危うい黙示録的な社会であるとも云えるわけです。