アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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白洲正子の武相荘 アリアドネ・アーカイブスより

白洲正子の武相荘

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 数年前に、福岡のアジア美術館と云うところで白洲正子展があり、そのときに彼女の書斎が原寸大で正確に再現されていたのを記憶している。書斎よりもわたくしたちに一等興味深いのは、彼女の本棚であろう。わたくしたちも、心を許せる友であると認めたときは、まるで自分の庭を勝手口から紹介するように、自分の書斎を案内するものである。わたくしも心で先生と呼べる人が一人いて、奈良のお宅を訪問した折に、やはり書斎と本棚を案内されたことを懐かしく思い出す。わたくしたちにとって、彼がどんな人であるかは、どのような作家のどんな本を読んでいるのか、ということであらましはわかるものである。本棚を見せるとは手の内を見せると云うことと同義である。
 ところで白洲正子とは何者か。能と古美術に造詣の深い、偉大なる素人を是認する女性(にょしょう)と云えばいいのだろうか。美意識を奉ずるものとしては小林秀雄の直弟子であることを是認している。共通するのは、敗戦がもたらした精神の空白が生んだ日本ナショナリズムのリアクションのひとつである、と云ってよいであろう。
 わたくしが白洲正子に接するたびに思うのは、美意識の貴族制と貴族性と云うことである。フランスではフランス革命の時期に、日本でも明治維新の時期に貴族制は滅んだと云ってもよいだろう。革命の結果、ガラパゴスと化した貴族はフランスにおいては大規模の葡萄園の経営者として、アパルトメンの大家として生き延びたが、日本においては薩長土肥の田舎侍が第二次大戦による切断を受けるまで、復古的な理念のもとに貴族性を復活させた。日本では貴族制は二度にわたる変革と受難を経験することで徹底的な破壊をみ、自由と平等、文字通り平民万能と云えば聞こえはいいのだが、下品で低俗とも云える植民地主義的平等の民主主義の世の中が成立するのである。
 わたくしはここで貴族主義の良しあしを言っているのではない。白洲家の三代にわたる興亡の系譜の概要に鑑みながら、凡そ個的性格を越えた気風であるとか家系の風格を語るに足るには、人の世は三代=百年ほどの
時間を要するのだな、という感慨に近いものを持ったのであった。何も白洲家が二代さかのぼれば薩摩の芋侍に過ぎなかったなどと挙げつらいたいのではない。貴族性と云うものは、何も先験的な所与や遺産のごとく与えられるものであったり、端的な生物学的な古さを言うのではなく、人々の憧れの中から、理念としての憧憬がある限り、復古と云う様式において再現されるものであり、古の貴種概念とはそうしたものでしかありえないし、考古学的な概念のように時空を超越する「科学的」な物的な「証拠」のようなものではなく、わたくしたちの生きる感性の度合いにおいて伸び縮みする、共労的な相互的な互換性に貫かれた概念である、と云うことである。
 他方、個性的個人の感性を超えた伝統であるとか、修練や修養が意味を成す古典的な美意識発見を通じて世相に抗しようとした白洲正子は、個人の美意識に比べればイデオロギーや世俗の複数の諸価値などは所詮「様々な意匠」のひとつに過ぎないと喝破した初中期の小林秀雄とは、本人が言うほどには似ていないと思うのだが、いかがであろうか。(小林の自意識論とは、世紀末フランス文学の、明晰と判明的判断に基づく知性主義であり、諸芸の身体的な所作を通じて、稽古は強かれ!と自らを叱咤した世阿弥の思想に基づく所作的認識とは違う。もっとも小林にも、流石と思わせるのは、主としてヴァレリーの身体論を通じて、目的性を様式とする行為や行動と、即自的な無目的化行為としての舞踏を論じた部分で完全に無関係とはいえないけれども、所詮はエピソード的なものに留まった、と考えている。身体的認識が彼の近代的自意識を超えることは必ずしもなかった。)
 能楽であるとか茶道であるとかの、中世の諸芸能においては、近代主義的な、認識であるとか感性であるとか想像力であるとかの、主客が分離した西洋的な認知の構造や機能とは別系統の、身体性を介した主客合一の所作的認識の一形式であると定義したいが、いかがであろうか。
 
 
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 本館内の展示は撮影ができないので、外観のみの写真を紹介しておく。
 
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 裏側に広がる、武蔵野を思わせる雑木林がまた素晴らしい。
 
 
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 青年よ、大志を抱け! のポーズで撮ってみました。
 
 
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 山荘風の家屋は、白洲家の末裔の方のお住まいでしょうか。
 
 
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 ホームバーを兼ねた展示室に、夫妻の写真が飾られていました。
 今日観る旧白洲邸、武相荘は、二人の思い出を中心に編纂された愛の棲み処である。次郎の影が濃く、正子の展示が少ないのは、正子ファンとしては不満が残る点ではある。銀座で趣味性の高い呉服店のようなものを経営し、能楽にもあれだけの造詣が深い彼女であれば、もっと数多くの遺品が残されているはずであり、それらの全部を展示するのには、いわゆる田の字型の農家を改造したと云われる武相荘の家屋では狭すぎたのだろう。もともとが、戦後の荒廃を予想して次郎が半ば自給自足の農村暮らしを夢見て、仮初に立てた、過渡的な家屋であったと思われるからである。行ってみて第一に感じたのは、宮様などの高貴をお迎えしたにしては、思ったよりは夫妻が小さな家に住んでいたと云う思いであった。
 
 
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 若い日の二人の写真を見ながら思った。――若き日の次郎のダンディズムに比べて正子は地味な印象を与える。敗戦後、次郎は日本人としては水際立った卓越性を脱して、舞台を去った名優のように普通の人間に帰っていったように思う。無名性に生きると云うこともなるほどダンディズムの一形式であるからである。他方、正子は、地味な少女から過酷な炎の美の精錬と精進をへて、美しく生きると云う放浪の武芸者にもにた乾坤一擲の先駆的な思いにおいて、歳を経るに従ってますます、若く美しくなっていったように思う。若く美しくあるとは、近衛文麿の自決に日本の貴族主義の終焉を見、王朝的な優雅さと儚さを見届けたのちに、それに殉じるのではなく無念さを秘められた想いを少女の胸に抱き、日本男子の不甲斐なさを秘かに背中に背負い、アンティゴネ―のように、背負いきれぬ重みは身に食い込み、重みは必然的に引き摺って生きると云う行為になるのだが、国破れたものの山河にありながら、勇士の骸を弔うのではなく非情にも引き摺ると云う行為によって、戦後的時間の地平線を引き摺ることによって、なお残された戦後の余時間を生きるに耐えると云う覚悟のごときものでもあった。貴族主義は正子の中で三度、覚悟と覚醒のなかで復活したのである。その覚悟と覚醒のほどは、女でありながら三島由紀夫などに比べても、より清冽なものがあった。先に、貴族性の概念をめぐって、理念がある限り、それを生かそうとするわれわれの側の受容性と云うものが成立している限り、復古的創造性としての貴族性はフェニックスのごとく三代=百年を単位として蘇るものである、と書いたように。
 
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 冬の日輪は赤みを帯びて大きく西にかしぎ、地に落とす影が長くなった。