アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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村上春樹の『蛍』 アリアドネ・アーカイブスより

村上春樹の『蛍』

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今年もまた期待はずれに終わったが
話題を賑わせたが、久しぶりに、
村上春樹とは誰なのか、
と云う意識に駆られて
好きな初期の作品から読んでみた。
 
 村上春樹の『蛍』は、彼の代表作とされている『ノルウェイの森』の原型とされる作品として知られているが、後者にはない独自性のようなものについて、論じられたことはあるのだろうか。
 
 一読して感じるのは、青年・村上春樹の人柄のよさ、育ちのよさである。万事、礼儀正しく控えめで、寮の同室者の個人的な趣向であるとか半ば我がままじみた偏執的な傾向に対しても自らを貫くことをしない、どちらかというと諦めてしまう。結果的にこの人柄の良さは、頑強この上もない体質と思われた寮の同室者が二週間ほども突発性の大病で寝込んだときに、大事なデートの約束をも反故にして看病に尽くすという献身?ぶりに現れている。
 つまり村上青年は大変親切なのである。
 
 人柄の良さとは生来のものだったのだろう。自分の親友の昔の恋人が付き合ってくれといえば、自分の背丈を認識しながら、着かず離れづの関係を維持するし、あなたには私の苦しみなど分からないのよと、言外にいわれればそうかも知れないと簡単に諦めてしまう。粘り強さというものがまるでないのだ。万事物分りが良すぎて、村上春樹のような程よい距離感をもった、ものあたりたりの良い知人がいたらきっと便利かもしれない、そう思わせる書き方がしてある。しかし『蛍』という小説を内部に入って深く味読してみると、他人の目にはひたすら便利な存在として映る彼のかけがえのない長所が同時に存在の軽さとして現れ、村上の青春の全域を被った憂愁であることがわかるような仕組みになっている。
 
 この話が切ないのは、若き日の村上春樹という人格が持つ物分りの良さとか、人の人生に影響を与えたくないと云う言外の節度やたしなみにも依るのだろうけれども、結局は、そうした人柄の良さゆえに、真実の人生は素通りして村上春樹の外側をすり抜けていく、という感じを上手く描き分けている点だろう。
 物語の最後の方で、寮の同室者に貰った人気のない寮の屋上の給水塔の上で風に吹かれながら、逃がしてやった蛍が明滅する描写を余韻嫋嫋と描くのだが、その弱りかけて頼りなく黄昏の空にまぎれるように姿を消す蛍の描く幻のような明滅する軌跡が、まるでとらえどころのなかった村上春樹青年にとっての青春の悲しみのようなものを描いてわたしたちをしんみりとさせるのである。
 
 わたしは村上春樹のファンではないので、二つのことを書いておけば十分だろう。
 一番目は、青春とは、十八歳の後に十九歳になり、そのあと十九歳から初めて十八歳に戻り、一歩前進一歩後退の無限循環的なメビウス的時間構造には終わりがないという意味での、ありがちでセンチメンタルな青春像についてのイメージである。それでも、如何にありふれて感傷的な見方であるからといっても侮ってはなるまい。永遠に大人になれない、あるいは成りたくないという願望は、その日その時を生きた在りし日の本人の青春像にとっては、真実だったのであるから。
 結局『蛍』とはこうした物語であったのではないかと思う。――青春像をまるで絵に描いたような二人のカップルがあり、彼らに対する永遠に近づけない憧憬の感情と、また二人のカップルの方から見ると、不思議なスパイスのように青春を際立たせるための要素のようなものとしての、名脇役的な存在としての「僕」というものがあり、ここに不思議な漱石の『こころ』にみるような不思議な三角関係が生じる。青春の論理とは、現実の条件を無視して、行くところまで行かざるを得ないところが論理的にはあって、それでヒーローは絵に描かれて極端に理想化された肖像画の人物のようにこの世から消えてしまう。残されたもうひとりは、青春の厳粛さを前にしてハムレット的な自問自答の果てに、やがて決着を選択するときを迎えるであろうけれども、その予感の中で「僕」は何もすることができない。「僕」は、かかる古典的な悲劇的な世界の圏外にあって、参加する資格を拒否されたまま、物語的世界から拒否されたまま、平凡な時間を永遠に歩く、というお話である。
 
 そうした『蛍』の話としての普遍的構造から一歩身を転じると、ここにはもう少し特殊な事情が描かれてある。時代経験をことにするものにはなかなかに分かりにくいことではあろうけれども、ここに言外に暗示的に描かれているのは、60年代の青春である。その理由は、村上が60年代の事象について頑なに口をつぐむという姿勢において、わたしのなかでそれは確信へと変わる。これが語りたいことの第二である。
 時代が激動の60年代から70年代へ移ったとき、平和な時代の中で死んだ死者たち――これは半ば比喩でもあり苛烈な事実でもある!――は良かれ悪しかれ、先に述べた華麗な額縁入りの物語的世界の住民に近く変質する。『蛍』に描かれた作者=村上春樹が人柄がよく節度高く控えめなのは、あの時代の経験が過剰に影を落としているからではないのか。あの時代の経験は人が人を無意識のうちに求めていて、自分の行き方なり選択なりが不可避的に人に与える、与えざるを得ない、人と人との関係が異常に近しい、またそれを求めてもいるそんな時代だった。村上春樹の小説は、そんな時代の終わりが、そう昔でもない、近過去にあって、なぜかその時代のことについて語ることが憚られる、そうした時代背景を前提としてのも正しく読まれうるのではないのかという、プライヴェートナ仕組みがある。村上春樹が折節に読者の前で見せる、億劫であるとか、どうでも良いとかという姿勢はこうした事情から帰結されるものだと考えてよいだろう。
 村上春樹の小説が、こうした擬似戦間期のアンニュイな気分のなかで読者を獲得しえたのは、人と人との間が、適度の距離感を持って過ごされることの中にある、快適さとか、心持のよさを積極的に支持してくれるような文化的な支柱として、時代を象徴する大文字のファッションとして見出しえた、と信じたという点にあるのではなかろうか。
 そんなアンニュイで醒めたものぐさ観を、『羊をめぐる冒険』や『ノルウェイの森』以降の作品は、都会的で垢抜けしていて洒落たセンスと雰囲気の中に、転調しつつ変奏して描いた。作者の才能もあるのだろうけれども中期以降の村上春樹の成功はこの辺にある。
 
 『蛍』と『ノルウェイの森』の違いは、語り手の人柄の世良さにある。村上は神戸出身であるのに、どこか垢抜けていず、東京という都会を前にしても、どこかおどおどとして小心に描かれている。こうした描き方が成功して、そこはかとない青春の愛惜観が描かれてこの小説を懐かしいものとしている。
 分かりやすく云えばこういうことでもある。『ノルウェイの森』の語り手であり「ワタナベ」君は誰にでも好かれる好人物だが、実は特色はそのことにはなくて、誰にでも好かれるということを自明視していることに最大の特色がある。これは作者が考えるほど自然なことではなくて、誰にでも好かれることを何の疑問もなく前提できる人間というのは、実はかなり特殊な人間なのである。この点を読者としてどの程度意識的にとらえるかで、村上春樹の読み方が変わってくる。
 この点が『蛍』では正反対になっていて、語り手の「僕」は、誰にでも好かれるどころか、他人の生き方を尊重し、出来れば自分の恣意的な選択が他人に影響を与える権利などないという慎ましい生き方をしている。何に対してここまで謙る必要があるのか、それは青春というもののナイーブさの反映であるのかもしれないが、かかる何事に対してもみせる「僕」の自信のなさが読者の目には言外に、ある近過去完了形としての悲劇的な過剰な物語の終わりを確信させ、語り手たる人物の人間像を奥ゆかしい表現として映じさせるのである。
 『蛍』にはまた、真正の田舎の青年とも言うべき人物も描かれていて、「僕」を特徴付けている対他性やそれが反転したものとしての対自性がない。彼らの即自性はそれ自体で不器用は不器用なりに安定した構造を持っており、彼らの朴訥、実直さは、阪神間の都市文化を生活の基礎としてきた村上とは異質のものでもあろう。
 『蛍』と『ノルウェイの森』の違いは、こうした不器用な田舎出の青年の描き方にも顕著に違いが現れていて、後者では描き方においてやや冷淡でもあれば辛らつでもある。
 世の中や人を見る目が村上春樹の中で変化したのである。それは世代の風俗を描く作家が、国民的作家として期待され、あるいは国際的な作家として脱皮していく過程とも見られようが、得たもの見失ったものをも共々に、等分に検証していくこともまた必要なのである。大文字で描かれたものだけが文学ではないのである。
 これは村上春樹の問題というよりも、芸術や真の学問性との接触を失い、センセーショナルな興行に打って出て経済の歯車を廻し続けるほかにない、退潮著しい出版界の事情があるとも云い様によっては云えよう。売れるかどうか分からない世界の中でこれだけは確実に村上春樹産業とでも云ってもいい機構の存在は、この世界で生計を立てている数多の人々の存在を前提としている。飯を食うこと食えることをぞんざいに考えてはなるまい。しかし出版社の事情と論理ばかりがまかり通ってはなるまい。
 さて、先に擬似戦間期と書いたが、昨今の国際環境がきな臭いと予兆をみせ、国内の社会的格差等が拡大する中で、かっては一億総白痴社会とも悪し様に云われた一億総中流の牧歌的な風景が懐かしく萎みつつ霞んでいくに連れて、文学観もまた変わらざるを得ない時代を迎えるのであろう。こうした時代の変化の中で村上春樹の文学もまた真価が問われていくことになるのである。