アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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パリと云う町・4――サン・ブノワ街 五番地四階 左側 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 
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サン・ブノワ街 (左・プチ・サン・ブノワ 右建物4階・デュラス旧宅)
 
 
 五日間いたパレ・ガルニエ界隈のアパルトマンを去って午前中にバスティーユとマレ地区の境にあるアパルトマンの7階(日本では8階)に引っ越した。最上階からは西に向けて縦長の窓が三つ、左からパンティオン、モンパルナスタワー、ノートルダムエッフェル塔、そしてモンマルトルのサクレクール大寺院を遠く一望に臨むことが出来る。最上階であるけれども今度は近代的な建物なので壁も天井も傾いてはいずに、ホワイト一色ですこぶる明るい。
 荷物を解いたり小引っ越しの後片付けをしていたら昼近くになってしまったので慌てて車を呼んでカフェ・フロールのあたりとだけ運転手には告げてサン・ゲルマン・デ・プレ教会の近くで降ろしてもらった。さて、いよいよサン・ブノワ街である。
 
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 マルグリット・デュラスが長年住んだアパルトマンはサルトルシモーヌ・ド・ボーヴォワールでお馴染みのカフェ・フロールの角を北へ曲がりジャコブ街に突き当たるまでの短い街区を言う。その通りにはいまでもデュラスが毎日食事をしたと云うレストラン”プチ・サン・ブノワ”がある。入ってみると店のインテリアは一昔前のペンキと漆喰が剥落しかかった、ちょうどマルセル・カルネの映画にでも出てきそうな頽廃的で懐かしい下町風の風情を漂わせており、縦長の小壁に一角に三枚の小さ目の額に入った三枚の写真が、一枚目は『ラマン』でお馴染みの若き日デュラスの写真、二枚目は屋外のテーブル席に腰かけてこちらを向いているやや退色しかかった五十歳前後と思われる写真、三枚目は映画『ヒロシマモナムール』の書き込みのコピー写真が、申し訳程度に飾ってある。もはやパリにおいてもマルグリット・デュラスの事を語るような日々は過ぎたのであろう。窓辺に座ったわたしはデュラスの部屋からレストランが見えたと云う記載をたよりに、幾度も向かいの家を見上げて窓辺に凭れて通りを見下ろしていたあの頃のデュラスを偲んだ。永遠の待機状態にあって通りを見る気力も失った彼女は体を引いて冷たいレンジの隅に額を幾度も押し付け身じろぎもしなかった。
 
 
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もう二度と来ることはないかな・・・と思って食事の写真を撮りました。・・・
 マルグリット・デュラスの事はほかの記事にも書いているので今日は彼女の死後十年目に刊行された『戦争ノート』のことを書いておく。
 
 
 『戦争ノート』を読むことでわたしたちは作家マルグリット・デュラスと作家以前のマルグリット・ドナディユを区別することになる。既に戦前より著作活動を開始していた彼女は、『モデラート・カンタービレ』や『辻公園』でヌーヴォー・ロマンの傍流としての実験性を超えて、小品ながら極めて独特の味わいを持った作家としてヌーヴォー・ロマンの没落後も一層その文学性は確固たるものとして評価を高めていった。つまり誤解を承知でいえば、ややマイナーがかった文学の通じみた文学愛好家に好まれたのである。そのデュラス像が大きな修正を受けるのは、彼女自身最も重要な作品と語る短編集『苦悩』と、それを裏面から説明する本書の死後公刊によってである。
 端的にいうとわたしの関心は次の点にある。一番目はマルグリット・デュラスアウシュヴィッツの経験以降現れた作家のひとりである、と云う点である。周知に様にフランクルフルト学派を代表するアドルノは”アウシュヴィッツ以降にも文学は可能か”と問うた。驚くべきことにデュラスはアドルノの問いを外側からでなく内側から問うたのである。アウシュヴィッツの経験を内側から問うとはアドルノは知らず、有名なアウシュヴィッツからの生還者にして心理学者ピーター・フランクルの『夜と霧』も本当には描き得ていないことなのである――フランクルは収容所の「内部」から語った、しかしそれはここで云う「経験の内部」と云う事とは違う 。ある意味では心理的、内在的経験としてはアウシュヴィッツに無限に近く、物理的には祖国を離れて無限に遠いと云う独特の彼女の立ち位置が、アウシュヴィッツ以降を語りうると云う稀有の経験を可能にしたのである。
 
 彼女はアウシュヴィッツ以降の文学と云う困難に対して如何にして表現を与えようとしたのであろうか。それが『苦悩』であり『戦争ノート』の中に秘められていた二つの「苦悩」を始めとする草稿群である。
 『苦悩』は、「アウシュヴィッツ」に連れ去られた夫の帰りを待つ妻の物語である。夫は妻の悲観的な予感に反して奇跡的な生還を遂げて帰って来るのだが、第一の要点はわたしたちが初めて知るようなアウシュヴィッツの現実、枯れ枝のようにぎくしゃくと折れ曲がった痩身の身体から漏れ出てくる泡立つ緑色の便などの記述が続く介護の描写であり、デュラスの献身的な介護の甲斐もあって一命を取り止める奇跡的瞬間と、その彼に、荊の王冠を戴いて生還した夫に告げる離婚の、不可解な宣告である。第二の要点は、愛し合っていた二人が、自らの命に替えてまで望んだ夫の帰還と云う奇跡的出来事の果てに用意されていた、余りにも人間的な出来事の結末をわたしたちはどのように理解したらよいのであろうか。
 
 この問いに対する答えはこの本には書かれていない。その他の短編群、例えば「アルベール・デ・キャピタール」に出てくる苛烈な拷問者テレーズ、「テレーズは私である」(デュラス)、「ムッシューX」に描かれる加虐と被虐との入り組んだエロティックにして隠微な男女の関係、――まるで映画『愛の嵐』の世界を彷彿とさせるようなのだが、これらの諸編を併せて読むことにおいて、単純に夫の帰りを待つ銃後の貞淑な妻などと云う「愛の物語」などは、幾つかの保留を付けてでしか受け入れらくなるのである。マルグリット・デュラスは一見バラバラの短編小説集を編むことで、それら硝子の破片のような諸短編が煌めかせる複雑な乱反射をとおして、「文学の言外」を読んでくれ、と願っているのである。ここに云う「文学の言外」こそデュラスによって幾度か語られた「文学の沖」と云うことの意味である。
 
 愛し合っていたにもかかわらずマルグリット・ドナディユと夫ロベール・アンテルムはなぜ別れなければならなかったか。それは戦中の二人を襲った別離の期間が余りにも異なった二つの現実を二人に与えてしまったからである。マルグリット・ドナディユが夫の身体に見出した、生命体が物質へと還元されるような、腐食した植物かヘドロのように溶解する粘ついた夫の背後に隠された現実は、職業的な訓練を受けてきていない生身の主婦の感受性を超えるものがあったにちがいない。それが想像を絶する衝撃、彼女のアウシュヴィッツ経験の最初の一端をなすものだった。
 
 しかし、アウシュヴィッツの経験がなかったにしてもやがては二人は別れることになったのかも知れない。それが『戦争ノート』に収録された「かかる愛の恐怖」と「あなたですか、マルグリット修道女というのは?・・・・・」である。死産して生まれてきた金髪の嬰児は、清らかに天使であるように描かれているがゆえに、あるいは死産した二人の愛の象徴であったのであろう。妻が狂気のようになったとき、それを一般者のように宥める夫とは誰か?また「一般者」の弔いの儀式をある種の強固な職業観で遂行するマルグリット尼と修道尼院長とはとは誰か?
 
 かけがえのないものの唯一の死と云う最もプライヴェーとな出来事に、「一般者」としてしか関われない男「性」とは誰か?また、自分自身にとっての固有な死と云う他と取り換え不能の固有な出来事に、なんとそれを職業的な関心のみをもとに関わってくる職業的センス、かかる微動だにしない職業倫理を背後から保証する機関とは何か?つまり宗教とは何か?
 
 男「性」の「性」性に関わる事象は、アンテルムだけでなくマスコロについても重要な記載が『戦争ノート』の中にはある。これは精神を病んで狂気の一歩手前にまで追い込まれたデュラスに助言を与える場面に続いて、
「これは私たちにかかわり、私たちにしかかかわりのないことなのだ――私たちを批判するあなたは、住いのどこかよそに場所に引っ込んでいてもらいたい」(『戦争ノート』)
 
 この重要な語句が何故『苦悩』の決定稿からは削除されたかが雄弁にことの本質を言い当てる。性差がもたらす決定的な深淵について彼女は語っているのだ。死産に終わった生身の女の苦しみが、引き裂かれた戦争の異なった現実、その孤絶観と重ね会わされて語られているのだ。
 
 しかし、デュラスには男性「性」について奇妙な偏りがある。性差が齎す深淵ともいうべき断絶感において、ロベール・アンテルムは、ディオニス・マスコロ、とある意味でよく似ているのである。
 デュラスにとって、男とは、唯一の男とは、イエス・キリストを除けば、もしかしたら、インドシナ時代の下の兄、ポールを於いて他にないのではなかろうか。
 これは『アガタ』の世界だ!
 
 これもまた、大胆な想像だ。ロベール・Lを待つ時間とは、対象性が極端な無力な状態であるがゆえに、インドシナ時代のデュラスを通して、極限解としては、金髪の美しい産毛を持っていたとされる死産した嬰児を連想させるものがあったのではなかったか。
 嬰児は一呼吸する間もあの世に旅立った。嬰児のように非力で無力な壁の目に無言でたつ男ロベールもまた、死なねばならない?
 
 わたしの大胆な想像を言おう。――過去にロベールとの愛の象徴としての無垢なる嬰児の死産、近未来としては同志愛としてのマスコロの愛とその象徴としての新たな新生児の誕生、そしてこの両者の典型像の間に横たわる深淵、ロベールを待つ無限待機の時間と荊冠を戴くものとしてのロベールの収容所からの帰還、復活。
 
 つまりこれらの一連の契機は、インドシナ以来のデュラスの神話的時間の脈絡の中では、日曜的時間には属していないのである。平然と別離を告げるデュラスは日常に属する女ではない。
 
 これらの困難な事象をデュラスの書かれた文体からだけ読み取ることは不可能である。わたしたちは特殊な想像力をめぐらして言外の脈絡から推測することが必要なのである。それが文学の言外を読むと云う事、文学の沖に漕ぎ出すと云う事の意味である。
 
 1976年5月の『ル・ヌーヴェル・オブセルヴァトゥール』誌によるインタヴューにおいてマルグリット・デュラスは「ユダヤ性」との関係を記者に問われているが、田中倫郎の解説文で紹介された範囲では、上手く答えているとは言えない。要点は、「ユダヤ人に近づき、一体となるためです」(デュラス)と云う事に尽きる。なぜそうなのかは彼女にも説明できない。
 この問いをめぐって日本の翻訳者は逆の方向に回答を求めているように見える。
 
「ここでのデュラスの言葉のうちには、夫のロベール・アンテルムがドイツの強制収容所に入れられながら、生還したと云う事実が強く作用している。デュラスにとっては、アンテルムはフランス人政治犯として逮捕され、荊冠をいただくユダヤ人として帰還したのだ。この時から彼女のユダヤ人願望に拍車が掛かる」(同書℗440)
 
 これはマルグリット・デュラスに関する、「普遍的で一般的な解」というだけで、ロベール・アンテルムとの離別の理由を上手く説明していない。別れた夫の聖化と云うメロドラマとデュラス個人にとっての実存のかけがえのなさが、重量的に釣り合わないのである。これは間違った回答ではないけれども実存に染まった解ではない、最大公約数的な解、半面の解ともいうべきものである。
 
 それにしてもデュラスの研究者たちはなぜ、加害性と云うものに対して一様に沈黙するのであろうか、あるいは加害性が話題にならないにであろうか。デュラスの加害性、被虐-加虐の相互浸透と云う観点を交えなければ『苦悩』の例の分かりにくい表現は理解できないだろう。
 
「大戦中にユダヤ人の身にふりかかったことに覚えた痛手から私は全然立ち直っていません。私は自分の身にふりかかったことからは立ち直りました。私は子供と兄を喪いました。レジスタンス運動で、ラーヴェンスブリュック、アウシュヴィッツ強制収容所で、十四人の友達を喪いました。でもユダヤ人の全般的な運命にくらべれば、そういった個人的喪失の傷の方が治りかたが早いのです.。非常に個人的な、きわだった、苦悩にみちたやり方で普遍性を経験するということはありうることなのです。」(デュラスの言・日本版『苦悩』P281
 
 あるいは、「私にとって、戦争は、『アルベール・キャピタール』で語ったあの情景のあった日に終わった。そのあと、強制収容所からの帰還があったけど、もう殺意は消えてしまっていた」(デュラス)
 つまり『戦争ノート』のクライマックスは、「あの日」に因んだものであることを図らずも語っている。
 
 アウシュヴィッツの経験を内側から理解するとは、それを被害者の観点からのみではなく、加害者の観点からも理解すると云う独特の境位にあった、と云う意味である。自らの加虐-被虐の両面にわたる関係を、加害性の論理を自らの内に取り込むことによつて、アウシュヴィッツの経験を、内側と外側からの両面から理解することの可能性について、言外の示唆をデュラスは与えているのである。
 
 マルグリット・デュラスユダヤ性と云う事に関していうならば『戦争ノート』が二つの中心を持つ楕円体の構造であることについても言及しなければならないだろう。二つの中心とは、『太平洋の防波堤』と『苦悩』とである。
 
 七十代になったマルグリット・デュラスが何故自然主義的な陰鬱の書―ー『太平洋の防波堤』の精華の抽出たるべき黄金の書――『ラマン』を書かねばならづ、改めて自作の中で『太平洋の防波堤』の重要性を認識していく中で、まるでヤジロベエの平衡を取るかのように、他方で同じ時期に『戦争ノート』の中に見捨てられてあった『苦悩』の諸草稿を思い浮かべたか、と云う彼女の精神構造に思いを致さなければならない。
 
 『太平洋の防波堤』の、愛と苦悩と郷愁の浄化である『ラマン』を書くことは、同時に『苦悩』に誘引されるようななにものかがあった。
 
 実は、時も処もテーマも異なっている二つの作品には共通点があるのだ。それがユダヤ性と新約‐旧約の構造なのである。別れた夫に受難者としての聖性の顕現を見ると云うだけの、田中倫郎のような感情移入的なレベルでの理解では不十分だろう。デュラスにとってのキリスト教理解はアンビヴァレンスであり、頭からキリスト教の倫理とヒューマニズムを無前提に結ぶ日本人の先入観ではデュラスの複雑さを解けない。
 
 『太平洋の防波堤』はインドシナにおける一家の悲惨な出来事の一連が語られているけれども、現代の世界の65億の民の三分の一が何らかの形で戦乱や飢えと云う事象に直面していると云う意味では、悲惨な出来事は他にも沢山あるであろう。問題なのは「悲惨」を受け入れる感受性の質と構造にある。太平洋の防波堤が決壊したとき、それを自らの不運であるとか知識や見識の不足であるとは受けとらずに、「太平洋」の防波堤、などと大見得を切って、まるで自分自身をシジフォスの営為か旧約の王たちの列伝に准えて理解する母親の感受性の質、精神の神学的な構造にこそ、あらゆる不運な出来事の原因がある。
 
 この愚かな母親を子供たちが客観的に評価し、批判できなかったのは彼女がほかならぬ「旧約の王」「旧約の神」であったからだ。批判は、お前たちを愛していると云う愛の鞭、愛の鎖によって、一体化されたものとして自他の区別を生まない構造であるからであり、神であるからにはキリスト教の教える一神教の神とは、対象化して認識することを許さない「絶対」であるからだ。旧約の神がエホバの民を愛するゆえに食い物にしたように、母親は子供たちを食い物にした、そのユダヤ性に潜む加虐-被虐の構造があれほどにユダヤ人の虐殺と云う未曾有の事件において、容易ならしめた要因の一つとしてあったのではなかったか、というのが言葉に出されなかった・・・・・
 
 ・・・・・ハンナ・アーレントの言外の言説なのである、彼女はこれゆえに年来の多くの友人を失うことになる。
アーレントが孤立し多くの友人を失ったのは、「考えない罪」とか「凡庸さの悲劇」とかの誤解を招きやすい言説によってアイヒマン裁判の白黒裁判の鮮明度を妨害したことにあるのではなく、ユダヤキリスト教の精神構造に何か20世紀の悲劇に類似するものを嗅ぎ当てたからに他ならない)
 
 キリスト教精神と云うと何か最初から肯定的な評価を与えてしまいがちであるが、「かかる愛の恐怖」「あなたですか、マルグリット修道尼というのは?・・・」、そしてとりわけ「バイブル」を読めば、彼女のキリスト教評価は明らかではないのか。
 
 デュラスは感受性は鋭いのだが、論理的に冷徹に思考すると云う訓練を受けていないがために、この点を十分には意識しえなかったようだ。加虐-被虐の神話的構造の中で、神に試され虐げられるエホバの民の被虐性が受苦として受難として受け止められるのか旧約、被虐‐加虐の関係性の中で、加虐へと反転したとき生じるのが、新約と云う出来事なのである。
 短編集『苦悩』が新約的であると云う意味はそういう意味である。
 
 わたしは何度でもいうが、アウシュヴィッツは神なき時代の悲惨や道徳性の欠如ではなく、キリスト教の精神構造ゆえに起きた、不幸な出来事だと考えているのである。
 
 
 
 
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サン・ジェルマン・デ・プレの旧道