アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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木下順二の『本郷』――作家の恣意と表現力 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 本郷、わたくしもまた本郷めぐりと云うよりも、主として樋口一葉と鷗外、漱石への関心から最近歩き始めている。興味を持って読んだ。
 この本の特徴は、自分でもわからないが何が何でも本郷が好きだと云う作者の自分探しの本である。作者は本郷にこだわり、自身が青春の多感な時期の十年間を過ごした熊本における体験ですら、本郷を相対化するための視点として利用している。熊本のことを感情を抜きにして褒めているところが多いけれども、本当は嫌いなのである。ちょうど漱石の『坊ちゃん』のように、東京弁なまりを使うからという理由だけでいじめられ、『三四郎』のような気持ちに自らを重ねて、東京に「帰京」を果たしたが、そこには懐かしい本郷の痕跡は、本当の意味ではなく、東大正門からほど近い東大YMCAに住み着いて、そこにはかのプロテスタントの思想家・森有正などもいて、十七年間と云う膨大な時間を過ごす。過ごす時間の純粋持続の過程のなかから、なぜ自分は本郷を好きなのだろうと自らに問いかけ、近所近辺めぐりをするのだが、そのうちに変貌した東京の風貌の中から探せばあるもので、昔懐かしい本郷の雰囲気があちらこちらに痕跡として現存し、遠いむかしの記憶も、風の香りも戻って来る。しかし作者は本当に、郷里としての本郷を発見できたのか。
 物語の叙述は、1937年の7月10日過ぎ、お茶の水への坂道を、とぼとぼと、下りかけるところで唐突に、ある種悄然とした雰囲気のなかで筆が置かれている。なぜここに日付を書くかと云うと、同年同月の7月7日に盧溝橋事件が起こり、暗雲漂う時代の中に日本の世相の全体が巻き込まれていく、その端緒に当たる日の前後の数日間に当たっていて、全面的な派兵に至る一日前の不吉な予兆と予感とのなかで、半自伝は一応の目安としてそんな終わり方をしているからである。一方では感無量の思いもあったと思う。
 
 以上の概説を聴いて、木下の同書を読んだ読者から、原書と随分違うのではないか、と云う指摘を受けるかもしれない。それを承知で書いているのである。わたくしの『本郷』論は、著者が意識しえないでいる作品論なのである。作者その人よりも、読者の方が良く味読することができるかどうか、見解の相違があるだろう。他方、作品は活字になった段階で作者とのへその緒は切れるとも、これも昔からいい古されたことばである。
 
 さて、期待して読んだ木下のこの本も残念な結果になった。
 作品は、本郷の良く知られた、鷗外や漱石の旧跡、権現様やとりわけ荷風に絶賛された藪下の道など、通常、好事家が本郷と云う名前から想像できる、名所旧跡の類の紹介から始まる。
 そのうちに、俄然、木下家の人々とでも言うべき部分に移ると文体が冴えてくる。特に、三人の奇人変人とでもいえる叔父と伯父を描いた場面など。そしてこの三人の奇人変人に対峙するのが、平凡人の代表のような木下の実父の姿である。読んでいくと、この四人を軸に人間関係はある種の東京の文化史とでもいえる広がりを獲得する。流石だな、とおもう。地方の人間には分かりにくい、山の手の文化とは何であったのかが、この本を読むことで良くわかると云う仕組みを備えているのである。
 さらに表現性が際立ってくるのは、木下の兄や父母を中心とした家族を描いた場面である。わたくしたちは木下の父に関する叙述を通して、熊本と云う特殊に保守的な風土と底に棲息する異人(偉人?)たち、また、上流の地主階級や旧士族階級とはどういうものであったかを理解する。そして何事もお家大事とする風土の中から、両親とも二度目の再婚と云う複雑な事情の中から、木下三兄弟の様々な生きざまが紹介される。
 長男と呼ばれる人は、母親が病死した前夫との間に産んだ連れ子であり、父親に似た凡庸としか言いようのない保守的な人間だが、これが木下の筆にかかると、日本の封建制度における保守と云うことの意味を、ある意味で体現した母親想いの息子と云う肖像へと蘇る。自由な気風の中で生活してきた母親が、父親の隠居志向で郷里に連れ去られ、旧家の女将として如何に苦労をしたか。それを遠く離れた東京からひとり見ていなければならなかった息子のつらさ。さらには母親を守るべき立場にある自分の方が親よりも早く死別して先立ってしまう哀れさなど、日本的家族制度における長男の悲しさ、と云うものについての概念的な理解がなければこの場面は読み落としてしまうであろう。
 次兄についてはこうである。――次兄については記憶がほとんどなくて、関東大震災のとき二階にいた自分を横抱きにしてか階下に救い出した、その肌の感触しかない、触角としての思い出だけが、木下と次兄を繋ぐ唯一のものである。しかし木下は本郷めぐりをするうちに、断片的な記憶や聴き語りなどを通じて、社会主義思想に目覚め始めていたころの兄を想像する。つまり志半ばに倒れた、失われた自分自身の半身像を発見し、彼の中に本当の意味の、本郷を、つまり自分の故郷、精神の原郷を見出すのである。故郷とは地理的な場所ではなく、実にあやふやな記憶の中に潜んでいた肉親の思い出への仮託なのであった。
 この次兄が三十代で亡くなったとき、木下は郷里熊本の檀家寺で彼のお骨を奉げもって墓地までの道のりを歩く。次兄の死は父親にとっても大きな意味を持っていた。普通の意味での家族の死ではなかった。父親はある決断をする。彼は本堂に集めた小作を相手に労いの挨拶をする中で、これを期に全員に贈り物をしたいと言い出し、木下はこれが次兄への追善ではなかったか、と推測する。贈り物とは、小作全員に農機具等を取りそろえると云う恩恵と恩寵の行為なのであった。
 しかし、父親の恩恵と云う追善の志が木下には、封建性に安住する権威、権力の傲慢だと映じる。この日を境に、早世した次兄と共通する思いと彼が信じた心情ゆえに、彼は惣領を辞退すると云う選択を、このあと十年後に父親に宣告することになる。残酷な復讐である。父親が何をしたと云うのであろうか。木下は意識していないけれども、旧家の複雑な家系が生んだ集合的無意識、家父長制に対する宿年の敵意のようなものが感じられる場面である。
 この辺の木下の無自覚と云うか、配慮のなさは、戦前の社会主義思想を信奉させるものはこうでなければならなかったのか、と思わせる場面である。この書では不思議なことに親子の自然な感情が語られてはいない。旧家と云うものは大なり小なりそういいうものであったにしても、社会主義思想を信奉するものとして、近代化と自由の開放の理想を掲げるものとして、そういう疑問をもっても良かったはずである。
 戦前にはよくある事例であるが、木下もまた社会主義を信奉しながらクリスチャンの洗礼を受けていいる。後年、戦時中の日本キリスト教派の対応の矛盾に違和を感じて距離をとるようになるけれども、その理由は案外軽薄である。戦時中に日本キリスト教は生き残りのために、天皇陛下の御影を礼拝した。説教壇から国威高揚の訓戒をし、生徒たちを戦地に送り込んだと云うのだが、当時のキリスト教徒の対応もどうかと思うが、それを論う木下の論理も思想的に深いものがあるわけではない。
 こういうキリスト教の理解の程度であるから、なにゆえ母親がキリスト教を秘かに信奉するようになったかについても、まるで理解が届かないのである。木下は、比較的自由な雰囲気で育った母親が保守的な熊本で受けた仕打ちなど、自分自身が受けた経験をもとに、それに重ねて推測しているが、そうではあるまい。母親は寂しかったのである。彼が惣領であることの拒否をまるで英雄的な決断であるかのように赤い貴族として誇ったとき、母親としての実存的な根拠が家系の中で途切れたのである。自分の腹を痛めた唯一の生き残りである子供が本家の後継ぎとなる、この夢が破れたとき、自分は何のために苦労に堪えたのだろうか、と母親は思ったに違いない。確かに、本家がどうの、跡目相続がどうのとは、木下が学問として学んだレベルから見れば馬鹿げたことに違いなかった。事実、戦後の農地解放の中でこうした選択自体が無意味と化したことを木下は後年誇って、先見の明があったかのように書いている。しかし母親が擦り切れるほどに聖書を読んだと云う事実は、旧家の女将として実存的な根拠を失った一家の主婦が、学門のせいで自分たちとは別人種に成りおおせてしまった最愛の息子に対して、せめて、彼が信奉するキリスト教と云うものを自分も理解してみたいと云う、慎ましい最後の願いではなかったか。こうした弱者の心情が、肉親の心情がまるで木下には分からないのである。
 作中に出てくる漱石の『三四郎』の理解の水準もはなはだ凡庸である。本書にはSさんと云う、それこそ木下をキリスト教に留まらせた美貌の少女が出てくるが、それを『三四郎』のマドンナ、里見美禰子に比定して描いているけれども、馬鹿げたことである。木下は自身の『三四郎』理解に満足したか、それ以来読んでいないと云うのだが、そういう分野に限っては木下に進歩がなかったと云うことを証明しているに過ぎない。それから最大の謎は、本郷を語るならなにゆえ一葉について語らないのか、崖下は本郷ではないと云うのであろうか。木下にも言い分はあるだろう。
 
 木下順二著『本郷』は、表現力において、今はなき戦前の日本社会における旧家とはどういうものであるのか、そこに棲息する人種の諸相を卓抜なる描写力によって描き分けた。また、今日においては次第に語感が怪しくなり始めている山の手の文化とは何であったかの貴重な証言を残している。歴史と時間の淘汰に晒され、次第に意義が失われていくかに見える山の手と云う、今日では東京の東部になってしまった筋状の台地に開ける地域に潜むようにして棲息していた白亜紀ジュラ紀の変人奇人たちの面影を、その無名性に没するかにみえる彼らを何とか歴史の淘汰の闇の中から救い出して顕彰あらしめたいと云う、鷗外晩年のモチーフにもにた奇特な工夫すら見られる。そこには流石、と思わせるものがある。ひとりの文学者を生むとは、このような社会的、歴史的背景の中から、様々に生きた数世代の人々の生きざまと、現在に生きる者たちとの切磋琢磨のなかから、文学は生まれてくる、そんなことを感じて、同じ郷里への想いを抱きながら生きるものとして、適わないな、と思ったことである。
 作者その人の恣意には浅薄なものがあるが、できあがった作品はそれなりの表現力によって描かれた、読むだけの価値がある本になっている、それがわたくしの一読した感想である。郷土の大先輩に対して、不遜な言い方を許していただけるなら、『本郷』と云う書物は、作者その人には永遠の謎として残ると云う、不思議な書物となったのである。
 作者の恣意と表現力、と名付けた所以である。