アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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続『本郷』拾遺 木下順二・幻の処女作『嫂』と漱石の『三四郎』と『草枕』と アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 木下順二著『本郷』については語り残したことが二つある。ひとつは作者の若書きの書、幻の処女作となったかもしれない『嫂』と云う作品の存在である。
 『嫂』については、すでに書いたように病死した次兄の未亡人に対する木下の勝手で殊更な想いを書いたものである。戦前の日本の大家族制度の元では同じ家に暮らす、同年代の兄嫁に対する思慕と云う感情は普遍的にありえたのかもしれず、有名なところでは夏目漱石の事例など、戦後文芸批評の世界などで大きな話題を生んだことがある。つまり、漱石の秘められたマドンナのようなものの原型が、実はこの出来事にあったらしいと云う推測である。大変ロマンティックな話で、よいのではないかと思う。
 木下の場合少し違うのは、十代の中頃と推察される、異性への関心が出てきたかどうかもわからない、儚い性意識の揺籃のなかで嫂への思慕が語られたことだろう。実際に作者その人によって、郷里で焼却処分されたと伝えられているから現存していない作品について何が云えるわけでもないが、それを学内学芸誌への投稿依頼を受けた当時編集委員だった梅崎春雄によれば、大したものではないない、として返却された、と云うのが伝えられる唯一の情報なのである。
 まあ、木下の言いぶりからすれば凡その想像は付くのだが、それにしてもこの出来事がやや特異であるのは、不用意にも、当の姉嫁に日記を読まれたり、当作の原稿を読まれたりした無作為はなはだしい迂闊な経緯にある。
 日本の家族制度は戦前においてはもちろん、戦後の事情の住宅事情においても長らく個室と云う概念が成立しなかったが、木下ほどの大地主の広大な館であっても秘密を完全に隠ぺいすることはできなかっただろうと云うことは分かる。しかし兄嫁その人にしても、未熟な義弟の日記を読んでみると云う雰囲気はあったはずであり、木下本人にしても、兄嫁に読んでもらいたいと云う意識がこころのどこかにあって、わざと読みやすいように机の上にさりげなく置いていた、と云う推測も成り立つのである。
 もしわたくしの推測が成り立つとするならば、木下青年若干十数歳にして高等の技術持っていたことになる。実際に、あまり時を隔てず兄嫁そのひとから、読んだわよ!と云うコメントをもらうことになる。そのとき、これもわたくしの想像だが、兄嫁と云われる人は年下の弟をなかば嗜めるような、目じりの回りに素晴らしい微笑を浮かべていたのではないかと思う。
 同じ家に暮らして、寡婦となってしまった同性代の兄嫁への想い、それは自然だったろうと思うし、よくあることではないかと思う。しかし、通常は大家族制度の中で秘められた青春の軽い疼きを伴った甘酸っぱい思い出として記憶されるに過ぎない、ある種の通過儀礼的な出来事が、なにゆえにか、兄嫁の目に偶然を装って触れ、思いが伝わり、確かな応答として帰ってくるとなると、それは一過性の文学的な経験のようなものではなくなる。つまり兄嫁その人がどのように思い感じたかとは別の問題として、ともかくも、愛すると云う思いが相手に伝わり波紋を描いて何らかの応答を返してきたと云うことは、ありがちの甘酸っぱい一過性の青春の思い出、と云う通過儀礼の儀式の閾を遥かに越えてしまうことがあるらしいのである。
 わたくしは木下の青春のこの小さな出来事のことを思いながら、愛に関することは、どんなに小さいことであれ、なかなかのことでは済まなくなるな、と思った。愛の痕跡をみたものには通常の視力が戻らない。愛の光景をみたものは通常の視界に戻れない。わたくしはこの出来事と、木下が生涯未婚で過ごしたことと関係があると云うのではない。木下の家系が、結局はこの兄嫁の娘の家系へと受け継がれていったことから、彼が小事めかして語っている、例の惣領を辞退すると云う行為ですら、この小さな出来事に関係があったのではないか、とまで考えているわけでもない。
 戦前の旧家における大家族制度のなかで、男子を生み得ず夫に先立たれた寡婦と云うものの立場がどのようなものであったか、わたしは知らない。木下の兄嫁に対する片恋慕のなかには、兄嫁の不安定な境遇に対する同情が潜んでいたような気がしてならない。
 ここで思い出すのは、『三四郎』のなかで漱石が佐々木与次郎の口をかりて愛に与えた定義である。概略いわく、――愛とは、恋とは、相手をかわいそうだと思いはじめるその想いである、と。
 
 そこで『三四郎』についてである。
 『三四郎』は通常は、タイトルロールの三四郎が主人公として読まれているようである。木下順二もそのように読んだ。だから彼の読みは、凡庸である、と云ったのである。
 漱石の『三四郎』は、田舎での純朴な青年が都会のハイブラウな美貌の夫人にさんざんに翻弄される、と云う話ではない。年齢においても、教養においても、社会環境においても各段に違う里見美禰子が、当時の東大に入学を果たした程度の田舎出の若輩のステイタスに興味を感じるわけがないではないか。むしろ、自分に気があるのかもしれないと勝手に思い込んだ三四郎の滑稽さをこそ物語の狂言回し役として読み込むべきだろう。
 『三四郎』の主人公は、里見美禰子である。そして広田先生であり、滑稽なホレイショウ役を買って出た佐々木与次郎であり、要するに小川三四郎を取り囲むすべての都会人が主人公である。
 漱石が『三四郎』で描こうとしたのは、近代、西洋の近代と云うものが我が国に何をもたらしたかを、愛の姿を通して描くことにあった。漱石の巧妙さは、小説のなかで、決して目に見える形では近代を描いていない。近代よりも、近代の痕跡を、なにゆえ痕跡であるのかは、産み落とされるよりも以前に、近代とは、我が国においては流産していたのだと云う思いが漱石の側に何らかの心の蟠りとして存在していたからである。
 わたくしたちは『三四郎』を読み終えて、きちんと机の上にこの書物を積みおいて、その上に手を当て添えて、ある種厳かな気持ちで、この小説の暗澹たる結末を眺めやり「発見」するのである。「発見」を、「予見」と言い換えてもよい。「発見」し、「予見」し、眺めやるほかに、何ができたというのか。
 呑気で、いい加減なパフォーマンスを演じていただけの佐々木与次郎ですら、近代の挫折者だったのである。広田先生の鬱屈も野々宮宗八のメランコリーもここですべて納得がいくのである。
 そして里見美禰子、日本近代文学が生んだ最も魅力的なヒロインの端正な肖像が、このとき揺らぎながらささめきながらある種の哀惜と哀憐と憐憫へと変貌する。わたくしたちは同じ哀憐と憐憫の眼差しを『草枕』の温泉宿の若女将、那美さんのなかでも見知っている。明治六年の神風連から十年の西南の役に至る疾風怒涛の近代熊本における近代化の挫折の歴史、その結果として他に卓越して極端に反動化した百年の県史としてのその歴史、その象徴として、あるいは実現しえなかった近代の夢としての那美さんの遠ざかりゆく肖像を!
 里見美禰子の場合は、それはキリスト教である。三四郎の前に現れた彼女は、彷徨える羊など、様々に聖書の文句を使って、いっけん田舎での青年を煙に巻くようにみえる。しかしそうではないのだ。流産した近代化の痕跡がキリスト教の形見として、哀切な郷愁として語られ引用されててあるに過ぎないのだ。
 明治以降百年の近代化日本にとって、近代とは何であったか。いま、彼女はその近代の夢を自らの手で断ち切り、裏切ろうとしている。彼女が婚約の相手に選ぶのは、彼女の人格や教養に釣り合った相手ではない。通常のひとがごく普通に判断する、よい婚約、羨ましい婚儀の組み合わせと考えられる、経済力を有した身元確かな将来性のある凡人であるに過ぎない。純朴な田舎育ちの三四郎には最後まで、このイロニーが分からない。ちょうど『草枕』の画家と漱石に那美さんのイロニーが本当の意味では分からなかったように。
 『三四郎』はそうした暗澹たる作品なのである。近代の刻印を額に受けたものは我が国においては、カインとアベルの物語のように、あるいは隠れキリシタンのように共同体から切り離され、国家からも距離を保って素性を隠して生きなければならない、そうした人々の明治年間の物語なのである。