アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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陛下、生前退位の御意向の背後にあるもの――象徴天皇制の背景と意義 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 
(要  旨)
 ちなみに、陛下にとって国民の定義は何かといえば、現下にある国民であるとともに、悼みの対象としての戦没者を含む広く死者たちの世界をも含む冥界、霊界をも対象として含んでいる。同時に、象徴天皇制と云うものがイロニーとして、自己否定を契機に媒介項として未来をも視野に含んでいたように、未だ生まれて来ざるもの達の聲なき権利についての、配慮し顧慮し祈願しつつ沈潜する、重層せる複雑な時間論の構造を備えている。日本国憲法を読む場合に、世界公民的見地と実存としての時間構造を読み取ることができなければ、日本国憲法を真に読んだと云うことにはならない、日本語を駆使して日本人として憲法を読んだとと云うことには少しもならない。(本文より)
 
 
 
 象徴天皇制における「象徴」とは何か。
 
  この解釈については陛下が折節に述べられる言動によって、あるいは所感においても一部は明らかであり、「象徴」には実質が伴わなければならないと云う強いご自身の意思がある。進駐軍等の一部の憲法起草者のなかには、あるいは天皇を具体的な政治的、国政の場から排除し遮断しようとする、先の大戦の結果を踏まえた配慮もあったとは思われるが、今上天皇陛下とともに戦後最大の思想家でもあられる昭和天皇はかく考えられることを思想的課題としては必要十分なこととは理解されず、単に「象徴」として祀りあげられることに対する否定を通じて、弁証法的理性の正反合のより高いレベルに於いて永久平和に貢献することを誓われたのである。それゆえ「象徴」の中身は平和憲法を堅持し、世界平和のために貢献すること、憲法を読んでみれば一国の平和を越えた「諸国民」と云う概念がとりわけ高く燦然と輝いているのをわたくしたちは憲法の前文に見るであろう。つまり日本国憲法とは、一国の憲法を越えているのである。一国の事情だけで解釈されることを許さないのである。それを日々たゆまぬ不言の言動として恒久平和と日本人のアイデンティティに鑑み、誠実に実行されること、それを昭和‐平成の歴代陛下は自己の使命として自覚された。
 いまや、その皇室の積極的な平和主義が、年齢が加齢現象に伴う不可避な体力の衰えのため、「象徴」が要する責務と義務を次第に果たせなくなるのではないのか、もしそうであるならば、御父君である昭和天皇が敷かれた「象徴」の語義解釈並びに言語の定義に照らして相応しからぬ身を晒すことになるのではないのか、と云う危惧、これが今回、陛下がご広く国民に問われるであろう御設問である。
 
 同様に、来る八月八日に予定されていると聴くご感想ならびに所感表明の中では決して語られないであろうと予想できるものもある。
 それは、象徴天皇制の変貌、変質、変遷である。これは二つの相反する所論と諸説と深き歴史的感慨とを含んでいる。一つは、象徴天皇制とは終戦直後の人間天皇宣言以降の、わが国民主主義的社会と風土の未成熟度に鑑みて、陛下御自身が先駆的、先見的な役割を果たされるだろうと云う決意があったと思われるのだが、既に戦後七十年を閲するにおよび、戦後日本の社会と民意が民主主義的な営為と発想と思考において十分に成熟をみたのであれば、象徴天皇制の意義、定義もまた変わらざるを得ない、と云う内心の思いである。生前退位の御意向の背景には、戦後日本の民主主義国家としての成熟と云う観点が明らかに存在する。(戦後史に於ける国民性の成熟が政治的成熟と同義のものであるかどうかは別の、興味ある課題ではあるが。)
 もう一つは、以上の観点とは微妙に相反する政治的状況を総攬する総合的な見解を含んでいるものであるが、昨今の9条をめぐる慌ただしい理性を脇に於いた安保法案に関する一連の混乱せる非立憲主義の手続きに反するような討議のあり方進め方に鑑みて、さらには先般、今夏の参議院選に於ける無残なる結果、――健全なる民主主義社会を保証する思惟の多様性のバランス感覚の失墜と、権力側のある種の主観主義的な傍若無人の偏りを見て、もしかしたら日本の民がかって自分自身が夢見た民衆像とは少し違った方向にきてしまったのかもしれない、もちろん象徴であるに過ぎない自分自身の見方のほうも間違ってもいようし、政治家の側にも驕りと知性に対する侮蔑と学問に対する不遜な振る舞いがある、いずれにも決めかねない混沌がある。これを節目として、一度すべての国民の眼に、耳に、心に、呼びかけてみたらどうだろうか、と云う思いである。あるいは政治不信が蔓延し、ここで陛下御自身が国政と国事の相違を重々知りながら、そのことについて、日本は果たしてこのままで良いのか、現在政府で画される方向で良いのか、と。
 古来より高貴な方の心中を思い遣り述べることを忖度、あるいは皇親政治においては「輔弼」と云うやや特殊な言い方をすることがある。これに倣えば、わたくしにはこれは陛下が意識のレベルでも無意識のレベルでも決して意思もし、思われてもいないことであるが、スペクトルが異なった次元に於いて、すなわち象徴天皇制の格位において、象徴天皇に成り代わってわたくしが代弁もし言うならば、国民に対するお叱りの言葉であるとともに励ましのお言葉のように聴こえる。
 
 民主主義的風土が未成熟な段階に於ける象徴天皇制とは、民衆が自分の耳で聞き、自分の目で見、自分の脚で立ち上がることができるまで、母親のように伴奏者として付きそう、という意味が含まれていた。あくまで国民主権であり、天皇とはかかる意味においても「象徴」的な役割に限定されたものなのである。また国事に関わり国政には関わらないと憲法に明記されている以上、象徴天皇制の実質的な履行もまた「象徴」的な行為でなければならない、と云う陛下御自身の含意も含まれている。
 もし、象徴天皇制と云うものの数学的極限値「∞」を考えるとすならば、「象徴」性のなかに囚われた人間天皇が、最終段階に於ける人間として最後に解放される時であり、同時にそれが日本国民衆の民主主義的な意思が象徴天皇制と云う制度と憲法の枠組みを超えて、乗り越え乗り越され乗り越えられるべき課題として潔く民主主義革命の白き炎のなかに投げ捨て去られるべきとき、――人類史の前史、その最終段階は終わりを迎えるであろう。
 かかる意味において、象徴天皇性とは、自らの自己否定を通して自己を実現する、イロニー的な存在である、とかってわたくしは定義したのである。イロニーとは、自らの否定性の極限に於いて自己を実現する途である。
 陛下が、お話のなかで決して語られないことの三つめは、かかるイロニーとしての象徴天皇制についてである。
 ちなみに、陛下にとって国民の定義は何かといえば、現下にある国民であるとともに、悼みの対象としての戦没者を含む広く死者たちの世界をも含む冥界、霊界をも対象として含んでいる。同時に、象徴天皇制と云うものがイロニーとして、自己否定を契機に媒介項として未来をも視野に含んでいたように、未だ生まれて来ざるもの達の聲なき権利についての、配慮し顧慮し祈願しつつ沈潜する、重層せる複雑な時間論の構造を備えている。日本国憲法を読む場合に、世界公民的見地と実存としての時間構造を読み取ることができなければ、日本国憲法を真に読んだと云うことにはならない、日本語を駆使して日本人として憲法を読んだとと云うことには少しもならない。
 而して、日本国憲法は日本国民の憲法にして「諸国民」の理想であり普遍的意思の表明なのである。かかる憲法前文が謳い上げた万国の「諸国民」と云う記述のなかに、日本国憲法が一国の憲法を超えたものであると云う含意、普遍の法であることの願いも含まれてある。――国内の実益、実況だけで論議してはならないのである。
 かかる、諸国民と世界公民的見地と、現在‐過去‐未来をも脈絡として含んだ日本国憲法の構文と時間構造を含んだ言説として、それを正当に評価できるもののみが憲法堅持であれ、改正であれ、加憲であれ、云々する権利を有するのである。日本国憲法を日本語で読むとはそういう意味である。進駐軍等の外部勢力に押し付けられたなど想像力の貧困も甚だしい、どこをどう読んでいるのか。
 想像力無き者、創造性無き者は議事堂を去らなければならない。
 
 
(注記)
 生身としての実在としての今生天皇陛下と、象徴天皇制に於ける象徴天皇を区別して論旨が組み立てられてあります。そこを注意して読んでくだださいますようにお願い申し上げます。